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【ノンフィクション】上田桃子の20年<後編>もしも生まれ変わったら…「次はフェードとクロスハンドかな」

上田桃子を長年間近で見続けてきたライターが綴る、「上田桃子の20年」。後編では、台頭する若手と渡り合ってきた上田の、取り組んできた姿勢や名伯楽・荒川博との出会いなど、著者だからこそ知りうるエピソードを交えて紹介する。

TEXT/Kenji Oba PHOTO/Hiroaki Arihara、Masaaki Nishimoto、Rui Watanabe、Seiichi Nomura、Kazuo Takeda、Shinji Osawa、Tadashi Anezaki、Hiroyuki Okazawa

上田桃子 1986年生まれ、熊本県出身。9歳でゴルフを始め、05年プロ入り。生涯で450試合に出場し、日本ツアー16勝、米ツアー(日米共催含む)2勝、通算獲得賞金額は10億9476万4906円(6位)に上った

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変化するゴルフ界で
桃子は理想を追求した

20年という歳月は、クラブにも大きな変化をもたらした。9歳で坂田塾に入ったとき、パーシモンのクラブを振った記憶がかすかにあるという。その後、メタルヘッドが登場、やがて素材はチタンに変わり、ヘッド容量は160㏄前後から、今は約3倍の最大460㏄まで認められるようになった。

ゴルフに対する考え方も大きく変わった。たとえば長く感覚的だった指導は、今は弾道解析による数値で示される科学的なものが主流だ。桃子はデビュー当時からいち早く帯同トレーナーを付けた選手だが、フィジカルトレーニングを取り入れないと通用しない時代にもなった。そこに加えてベテランと呼ばれる選手は、体力の衰えとも戦わなければならない。

しかし、桃子たちが先頭に立って築いた女子ゴルフブームは、恵まれた体格と運動能力、センスと頭の良さを併せ持った才能ある子どもたちをゴルフ界に向かわせた。黄金世代、プラチナ世代、ダイヤモンド世代を相手に一線で戦うとは、単にスコアだけではない、変化への対応も含む、目には見えない戦いに挑まなければならないのだ。その意味でもう一度、23年シーズンの桃子の成績を見てほしい。私が桃子のゴルフ人生における勲章と言う意味が、より理解してもらえたのではないだろうか。

23年の合宿に入る前、コーチの辻村明志は桃子にこう言われた。

「年齢のことを言ったら、合宿には行きません。同じ土俵に立ったら年齢は関係ないし、特別扱いだけはしないでください」

若い選手と一緒に走れば後れを取る姿も増えた。20歳近く若い選手もいるのだから当然のことだ。だが、平坦地で差をつけられても、上り坂に入るとその距離をグングン縮めると辻村は言う。

「最後まで諦めない。若いのには負けないという根性もすごいんですが、自分の体やスウィングを知り尽くしていることもすごい。桃子は下半身が生むエネルギーを、効率よく腕やクラブの振りに伝えていくタイプのスウィングです。そのために軸と前傾角をキープする下半身の安定が求められますが、意識してそういうトレーニングを続けてきたのでしょう。それがあの上り坂の走りでもあるんです」

求められるスウィングそのものも、20年間で大きく変わった。デビュー当時は、少しでも遠くに飛ばすドローボールが求められたが、今は距離も出る高いフェードボールが主流だ。20年前に比べ、厳しいところにピンが切られ、より狭いショートサイドにボールを止める技術も必要になった。そうしたなか、マイナーチェンジを繰り返しながら、果敢にスウィング改造に挑み続けたのも桃子の20年だった。トップの高さをヘッド半個、ダウン軌道をシャフト1本分変えるだけで、半狂乱になる選手を私は間近で嫌というほど見てきた。


それに対し桃子は理想を追求した。当人は「今どき流行らない気合いと根性で」と笑うが、その姿勢はあまりにストイックで、あたかも修行僧のようでもある。38歳にして最後まで飛距離は伸び続けた。最終戦となったエリエールでは、同組の小祝さくらよりもセカンドを後で打つこともあった。

生まれ変わったらまたゴルフをやるか? 一度、辻村が桃子に聞いたことがある。しばし考えた桃子は、冗談交じりにこう答えた。

「やっぱやりたいな。でも次にプロになったら、フェードとクロスハンドかな」

頭のいい選手である。コメントのひとつひとつがチャーミングで、これも桃子ファンにはたまらないところだろう。

「最後まで諦めない。自分を知り尽くしている」――辻村明志

専属コーチとして支えた辻村。「若い子に平坦地で差をつけられても、上り坂に入るとその距離をグングン縮める」

最後まで飛距離は伸び続けた

23年は、平均ストローク70.3445(4位)、平均パット数1.7706(8位)、パーセーブ率88.9510(2位)、平均バーディ数3.7207(8位)、リカバリー率68.7366(5位)など好成績。ドライビングディスタンスも246.36Yで20位に(17年は241.98Y)

神様はきっと、復活の
ご褒美をくれるはずだ

24年シーズンは春先から予選落ちが増え、いよいよ引退かと予感もさせた。ただ、予感させても不死鳥のように蘇るのも桃子であり、一方念願のメジャー獲得で復活という妄想を描いたりもした。初めて引退の覚悟を求められたのは13年シーズン。この年はアメリカでのシード権も獲得できず、日本では07年の賞金女王による5年シードも切れていた。道は推薦の8試合でシード復活するしかない。

桃子の美学からすればQTに進むくらいなら引退するかも。そういう可能性が高いと思われた。だが、それを辻村兄妹が救った。兄の明志は最終戦に賞金ランク55位で入る桃子のキャディを買って出て、3位タイフィニッシュでシードギリギリの48位に滑り込ませた。その相性の良さから、翌年からは専属コーチを依頼された。妹の明須香は“あすみん”と呼ばれ、美人プロとして知られる。その明須香は見えない糸で桃子を援護射撃した。

というのも08年から、「前試合の上位3位には、次の試合の出場権を与える」というルールができた。いわゆる“あすみんルール”と呼ばれるものだ。その前年、開幕戦で優勝争いを演じ2位となった明須香だが、ノーシード選手であったために試合に出られない。それに対して意見や苦情が、かなりの数あったとかで、翌年から設けられたのがこのルールだった。16年、桃子はこの制度で出場試合を1試合増やし、そしてシード権を勝ち取ったのだ。

2度目の引退の覚悟は16年。30歳になる梅雨入り頃には、本人も引退を考えるほどの深刻なスランプに襲われていた。これを救ってくれたのは、後に桃子と辻村が“最後の師匠”と呼ぶ荒川博。言わずと知れた一本足打法、世界のホームラン王の生みの親である。

当時、私は本誌で荒川と片山晋呉との対談連載、『1日1000回クラブを振れ』を担当していた。不調の桃子を元気づけようと都内の練習場に足を運ぶと、「あの晋呉さんとお爺ちゃんとの連載、面白いですね」と、桃子が言う。すると、そこに荒川からの着信があった。そこからとんとん拍子で話が進み、翌日には会うことになったのだ。野球の名伯楽とはいえ、ゴルフは門外漢。“氣”を使って名刺で割り箸を斬る実演を見せられたとき、目を白黒させ「まずいところに来ちゃったぞ」とでもいうような桃子の表情が今も忘れられない。

「最後の師匠」と呼ぶ荒川に動きや考え方の“神髄”を伝授され、強いボールが蘇った

だが、荒川に姿勢をただされるうち、強いボールが蘇ってくる。「ナイス」と声をかけられる度に、気持ち良く振れるようになってくる。7月、荒川による初のラウンドレッスンが行われたが、すでに荒川の心臓は半分動いていない状態だった。千葉から私の運転で東京の自宅に帰る車中、荒川は後部座席でぐったりと苦しい表情で横になり続けていた。

「これを桃子には絶対に言うな。桃子を教えて死ぬなら本望だ」

12月に荒川は桃子と約束した練習時間に現れず、息を引き取った。しかし、いずれにしても荒川が、桃子の選手生命を長くしたことは間違いない。頑張る者に神様はご褒美をくれると私は信じているが、荒川との出会いは神様のご褒美だったのだろう。その後“兄弟子”の王貞治らとの交流もまた。出会いが、勝負師としてだけでなく、人としても桃子を磨いてくれるご褒美のようだ。

一度クラブを置きツアーから離れる桃子に、神様はもう一度、復活のご褒美をくれるだろうか。するとエリエールレディスで桃子の最後の試合を見届けた諸見里しのぶは言った。

「安心してください。12年後には私が桃子を誘って、全米シニア女子オープンに一緒に出ますから」

50歳になった2人の姿が、今から楽しみである。  

最後の試合となった24年のエリエールレディスで。ファンの声援を浴びながらラストパットをカップイン。女子プロたちも「桃子さんが大好きです。多くのことを教わりました」と口をそろえる

週刊ゴルフダイジェスト2025年1月7・14日合併号より