【ノンフィクション】上田桃子の20年<前編>練習場所は屋外のベアグラウンド…「私のほうが絶対に強くなる」
上田桃子がプロ入り20年目の2024年、第一線を退いた。日本での最年少賞金女王(当時)を引っ提げアメリカツアー挑戦、帰国後もゴルフ界を引っ張り、長く中心で走り続けてきた。そんな桃子の20年を、近くで見てきたライターが思いを込めて綴った――。
TEXT/Kenji Oba PHOTO/Hiroaki Arihara、Masaaki Nishimoto、Rui Watanabe、Seiichi Nomura、Kazuo Takeda、Shinji Osawa、Tadashi Anezaki、Hiroyuki Okazawa
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- 上田桃子を長年間近で見続けてきたライターが綴る、「上田桃子の20年」。後編では、台頭する若手と渡り合ってきた上田の、取り組んできた姿勢や名伯楽・荒川博との出会いなど、著者だからこそ知りうるエピソードを交えて紹介する。 TEXT/Kenji Oba PHOTO/Hiroaki Arihara、Masaaki Nishimoto、Rui Watanabe、Seiichi Nomura、Kazu……
「桃子について書いてほしい」
編集部からそう言われて、すでに10日以上悩み続けている。20年のツアー生活を離れ、「一度クラブを置く」と言う上田桃子。私にとっての20年は、何から書いていいのか、何を書いていいのか迷い続けるほど濃厚な時間であった。
桃子のツアー生活での最高の勲章は、07年の史上最年少の賞金女王でもなく、同年のミズノクラシックでのアルバトロスでもなく、私は23年シーズンだと思っている。プロ19年目のこのシーズン、桃子は28試合に出場。優勝こそなかったものの11試合でトップ10フィニッシュ、何より注目すべきは予選落ちが1試合もなかったことである。桃子が「妹弟子」とも呼ぶ小祝さくらや吉田優利らに言い続けた口癖は、
「プロだったら絶対にゼロ円で帰るな!」
23年シーズンは、そんな言葉通りの桃子らしいゴルフをした時間だったし、それは勲章だと思うのだ。
鼻っ柱の強さは
今も変わらぬ魅力だ
桃子と初めて会ったのは04年。当時、私は神戸にあったETGA(江連忠ゴルフアカデミー)の役員をしていた。そこにやってきた桃子は、プロ志望の高校生の一人にすぎなかった。
正直、それほど強い印象もない。
アカデミーには当時、江連が中学生時代から指導する諸見里しのぶがいた。この年、しのぶは日本女子アマを制し、日本女子オープンではローアマになったがしかし、「優勝できなかった」と泣いた選手。
これに対して桃子は、日本と名の付く大会に出たこともない。同じ歳ではあったがまさに明と暗で、実力的にも注目度でも天と地ほどの差があった。しのぶは室内の3打席を、片山晋呉らとともに使用が許されたが、アマチュア時代はもとよりプロになった当初も、桃子の練習場所は屋外のベアグラウンド。しのぶ目当てで取材陣がひっきりなしに来たが、桃子は見向きもされないどころか、ある編集者から「そんなこともできないの?」と小馬鹿にされ、号泣したこともあったほどだ。
ただ、強烈に覚えているのが、江連の指導を求めて神戸に来た、ふるったその理由だ。九州地区で顔を合わせたことのあるしのぶに対し、「中学までは私のほうが上手かった。同じコーチに習えば私のほうが絶対に強くなる」。
その鼻っ柱の強さは、今も変わらぬ桃子の魅力でもあろう。六甲山の寒風吹き荒れるベアグラウンドで、「早く上手くなってやる。強くなってあの中で練習するんだ」と、桃子はボールを打ち続けた。
さて、ひと言で20年というが、その歳月は女子ゴルフ界を取り巻く環境を大きく変えた。アマチュア資格規定の大幅改正で、今ではアマチュアもスポンサードを受けられる時代になった。プロになった途端に、驚くような大型契約も少なくない。03年の宮里藍の高校生優勝で幕を開ける女子プロブームだが、有名企業のワッペンを着けられる選手などごくごくわずか。周囲に個人的に支援してくれる人や企業がいればラッキーという時代だ。
05年、プロテストに一発合格しQTを2位通過したものの、ブームの恩恵は桃子までは届かず、用具メーカーのほかに名乗りを上げてくれるスポンサーは皆無。それが当時の現実だった。実際、QT2位は嬉しいが、計算すると31試合は確実に出場できる。どんなに節約しても、1試合平均で経費は約20〜30万円かかる。私にとっては頭の中はお金のことでいっぱいで、もし全部予選落ちしたら……という最悪の事態すら夢に出てくる始末だった。
スポンサー探しといえば、こんなこともあった。人を介して紹介された何人かの経営者と食事を終えて店を出ると、まだ19歳の桃子が目に涙を浮かべている。どうやら私がトイレに立った隙に、お尻を触られたらしい。それを聞いて「賞金で稼ぐしかないな」と言うと、黙ってうなずいた目力の強さは今も忘れない。
「みんな調子いいですよね」と、桃子が苦笑いしたこともある。ルーキー年の06年に初シード、07年に初優勝をする頃から、「ひと目見た瞬間から、この子は強くなると思った」という周囲の声が、私や桃子に届くようになった。その中には、その数カ月前、私に向かって「自分のところの選手を褒めすぎだって、笑われてますよ」と皮肉を言ったテレビ関係者もいた。もっとも、「ウチの秘密兵器、3年後には1億円、今がお買い得……」と、ほらを吹き続けたのだから仕方がないが……。
ちなみに桃子は、新人戦の加賀電子カップで優勝。その縁で同社がスポンサーになってくれることに胸を撫で下ろしたものだ。私の営業力の不足分を、桃子は自らの力で切り開いた。
>>後編へつづく
- 上田桃子を長年間近で見続けてきたライターが綴る、「上田桃子の20年」。後編では、台頭する若手と渡り合ってきた上田の、取り組んできた姿勢や名伯楽・荒川博との出会いなど、著者だからこそ知りうるエピソードを交えて紹介する。 TEXT/Kenji Oba PHOTO/Hiroaki Arihara、Masaaki Nishimoto、Rui Watanabe、Seiichi Nomura、Kazu……
週刊ゴルフダイジェスト2025年1月7・14日合併号より