【ターニングポイント】佐藤信人「“違和感”の20年」
「勝ちたいと思ったことがない」「優勝よりも2位がいい」。そんなプロゴルファーがいるのだろうか。
賞金王争いをしたときも、欧州ツアーに挑んだときも、プロゴルファーという仕事が、違和感でしかなかった。目立つのが嫌いな、柔和なトッププロの、ターニングポイント──。
TEXT/Yuzuru Hirayama PHOTO/Takanori Miki
丸山茂樹と一緒に世界ジュニアへ
「丸山はわかるけど
もう一人は誰? って感じでしたね(笑)」
「自分でも信じられない」。長いゴルフ人生で、佐藤信人は、よくそんな言葉を口にしてきた。
その始まりは、アマチュアの試合に出場し始めたばかりの高校生の頃だった。
同年齢で2人、世界ジュニア選手権の日本代表メンバーに選ばれた。飛ばしたいわけでも、勝ちたいわけでもなかった。「その他大勢の下のほう」だったという彼が、「主役」である丸山茂樹と一緒に渡米することになった。それが、違和感の始まりだった。
父は証券会社のサラリーマンでした。部の仲間たちと常陽CCの会員権を買ってゴルフを始めていました。僕が初めてクラブを握ったのは、小学5年生くらいだったと記憶してます。初ラウンドは6年生でした。自宅の裏庭でアプローチの真似事をしたんです。そこからは我流の父に教わって、コースデビューのスコアは133でした。父は穏やかな人で、怒られるようなことはなく、練習もラウンドも楽しかったです。他のプロのような、特に変わったエピソードなんてない、平凡な子ども時代です(笑)。
中学時代は陸上部で、ゴルフからは離れ、高校受験に備えるために部活動が5月か6月くらいで終わるのですが、その頃から時間ができたのでまたゴルフに行くようになりました。試合に出るわけでも、プロを目指すわけでもなく、常陽CCで父の同僚たちやコースのメンバーさんなど「おじさんたち」と回る。それが僕にとってのゴルフでした。
千葉県立薬園台高校1年生のとき、テレビで日本ジュニアの中継を見たんです。2年生の深堀圭一郎さんが優勝していました。その直後、父に勧められるままに「どうやったらこの試合に出られますか?」と電話で問い合わせて翌年エントリーしました。消極的な性格でしたし、飛ばしたいとか、勝ちたいとかもなく、そんなにゴルフに夢中ではなかったです。周囲にゴルフに興味がある友人なんて1人もいません。高校帰りにビリヤードやゲーセンにはよく行きましたけど、練習場へは週に1、2回でした。プロゴルファーになった中で、僕が一番努力していない人間だと思います(笑)。
高校3年生のときに、たまたま日本ジュニアでベストスコアが出て(9位)、そのご褒美で世界ジュニアに出られることになりました。当時はマル(丸山茂樹)1人だけが別世界にいて、あとの選手たちは「その他大勢」。僕は「その他大勢」の中でも、さらに下のほうに埋もれていた存在でした。だから世界ジュニアで渡米することになっても、周囲の反応は「丸山はわかるけど、もう1人は誰?」って感じでしたね(笑)。
まるで映画のような世界
「着いた翌日にバリカンで青刈り。
それが“ラットウィーク”の始まりでした」
パターと軍用銃とでは、似ているのは長さくらいのものだ。
のんびりゴルフをやりながら英語を覚え、卒業後に企業に入社し、ゴルフも英語もどこかで生かせればと選んだ留学先が、なぜか陸軍士官学校だった。新入生は「ラット(ネズミ)」と呼ばれ、軍隊組織の一員となるために課せられる過酷な訓練の日々。ようやくそこを抜け出した先のネバダ州立大では、今度は勉強から逃げ出したくなった。そんな彼の逃げ道が、日本のプロテスト合格だった。
世界ジュニアで10日間もマルと一緒でした。もう何から何まで抜群に上手くて、僕はすべて彼の真似をしていました。プレーだけじゃなく、パターもセルフバッグも同じものを買って、同年齢の仲間というより、手本みたいな存在でした。
帰国後、大学受験に失敗して、浪人して1年間勉強漬けになるのが嫌で、どうしようかと。将来は父のようなサラリーマンになるのかなと思っていましたし、プロを目指して研修生になる選択肢もなく。そんなとき、世界ジュニアでお世話になった連盟の人からアメリカ留学のお話をいただきました。英語が話せるようになれば、いい就職口が見つかりそうだし、軽い気持ちで留学を決めたんです。
大学のパンフレットを見ると、「陸軍士官学校」とあって、写真にはずいぶんと坊主頭の学生が多いな、くらいの気持ちでニューメキシコ州へ向かいました。そんな僕の認識が甘かった(苦笑)。着いた翌日、いきなりバリカンで青刈りに。それが「ラットウィーク」の始まりでした。新入生は「ラット(ネズミ)」と呼ばれるんです。
敬礼の仕方、行進の仕方、靴の磨き方、ベッドメイク、シャツの畳み方は一辺の長さまで決まっているのを、すべて覚えさせられました。ホームシックになっている暇さえない。そのあとネバダ州立大へ編入できたんですけど、すっかり軍式英語が身に付いてしまっていて(笑)。年上の学生と話すとき、語尾に「サー」を付けなくて済むのが不思議なくらいでした。
大学の途中で日本のプロテストを受けたのは、ある科目で「F(落第)」をもらって、このままだと卒業できそうにないなと。プロになりたいとも、なれるとも思っていなかったのですが、結果的に一発で合格できました。ゴルフで飯を食うなんてことができるのはマルみたいな人だけだろうと。まさか自分なんかが受かるとは思っていませんでした。アメリカの荷物もそのままで、その後結婚することになる1学年下の妻に頼み、船便で送ってもらいました。
進学校出身だけあって勤勉な姿は現在も
綺麗に整った文字がノートにぎっしり! これは解説の際に使用している「佐藤メモ」。選手の技術だけではなくパーソナリティーまでもが細部にわたり記載されている
賞金王争いは違和感でしかなかった
「優勝ではなく2位がいい。
スピーチをしなくていいから」
スウィングやボールは目に見えても、心の中は目に見えない。
1997年のJCBクラシック仙台でツアー初優勝。2000年にはメジャーの日本プロを含む年間4勝を挙げた。賞金王争いをし(3位)、平均ストロークでは堂々の1位になった。
ところが、心の中で、「優勝よりも、できれば2位がいい」、そう思っていた。後に欧州ツアーに挑戦するも、その理由は他者には到底理解し得ないものだった。
プロテストのとき、同じ受験生に「何回練習ラウンドしたの?」と訊かれて、昨日来たばかりですと答えたら、「ナメてんのかよ!」って。別の40代の受験生は、2ホール目でグリーンをオーバーしたら頭を抱えていて、「今年ダメならもう終わりなんだ」と。僕にはそういう必死さがなくて、合格した後も、のらりくらりでした。
初優勝した1997年のJCBクラシック仙台でも、初めてのトップ、初めての最終日最終組で、よくいる主役の脇で最終日まで頑張るんだけど、急落して最後は十何位、みたいな役だろうなと思っていたんです。緊張しなかったのがよかったのか、そのまま初優勝できて。そのとき、僕が陸軍士官学校にいたという珍しい経歴だから、「パターを銃に見立てて構えてくれますか? とマスコミがポーズを求めてきました(苦笑)。
僕の強みは、そのパターでした。悩んだことさえなくて、入り出すと止まらないくらいにどこからでもよく入りました。2000年には4勝を挙げることができたのですが、いつも感じていたのは、自分がこんな場所にいられることが信じられないという違和感でした。
優勝争いをしていても、僕なんかでいいのかな、何かがおかしい、優勝ではなく2位がいい、スピーチをしなくていいから。僕、プロになってから一度も、優勝をしたいと思ったことがないんです。なぜなら、目立つことが嫌だから。このプロゴルファーという仕事に、どこかストレスを感じていました。
僕は自分のスウィングに対して、コンプレックスを持っていました。上下動が大きく沈み込むような独特のスタイルが嫌いで、練習場でギャラリーに見られることが恥ずかしい。自分に自信が持てない。それに、あるテレビ番組に出演した際、モノマネ芸人さんから、「おまえ、アゴがしゃくれているから、アントニオ猪木のキャラでいけ」と言われて。僕も開き直って「元気ですかー」って。それが結構ウケてしまい、猪木さんのモノマネを求められるようになってしまったんです。でも、心の中では、自己嫌悪でした。
2003年に欧州ツアーのQTに参加して出場権を獲得したんですけど、欧州ツアーに挑戦したい、なんて大嘘でした。本当は、QTに通る、通らないなんてどうでもよくて、またあのテレビ番組に出なければならないのを避けたかっただけ。そんなこと、当時は口が裂けても言えませんでしたけど。
欧州ツアーのQTで出場権を獲得
きっかけはともかく、欧州ツアーへ参戦したことは世界中の選手に興味を抱く契機に。後の解説者としての仕事に繋がっていった
「躊躇するタイプなのに
“よくやったな”と思います。
この服を見ると
自分を鼓舞できるんですよ」
運命は不思議というほかない。
サラリーマンに憧れた彼が、ようやくプロゴルファーから「足を洗える」というターニングポイントが訪れた。ゴルフ場への勤務が決まり、これで違和感とも訣別し、目立つことがない、安定的なサラリーマン生活を送れるはずだった。ところが、その最後の日本オープン。彼のゴルフはさえ渡り、3日目にはトップへと躍り出てしまう……。
2011年、引退するタイミングがあったんです。ゴルフ場に就職する話もいただいて、ああ、これでようやくサラリーマンになれるんだなと。プロゴルファーから足を洗えて、給料をもらえる生活ができるぞと。こんなギャンブル性の高い職業から逃れて、安定性の高い職業にやっと就けると。僕は、競技者にはまったく向いていなかったんだと思います。
こんなことを考えていました。年間1勝してあと全部予選落ちと、年間全試合25位、どちらがいいか。僕は迷うことなく、全試合25位がいい。「あいつ目立っていないけど、なぜかツアーにいるよね」みたいな選手になりたかったんです。
そんな僕だったんですけど、ようやくサラリーマンになれるという年に、妻が妊娠して娘を授かったんです。不妊治療をして12年目のことでした。だからツアーに出続けて、いい成績を出せずに赤字が続くより、ネクタイを締めて給料をもらう生活がなおさらいい。それで迎えた引退試合のつもりの日本オープン。3日目を終えて、トップに立っちゃった!(笑)。
でも結果的に3位に終わったので、いい引退試合になったなって思っていたら、マスコミに囲まれて「これでシード復活しましたね!」って。仕方なく翌年以降もツアーに出てみましたけど、やっぱりダメですよね。
いまは解説のお仕事をいただきつつ、シニアツアーにも出て、充実した生活を送らせてもらっています。40代で授かった娘も、まだ育てていかなければなりませんし、しっかり稼がないと、と思います。解説も恥ずかしくて、最初は放送事故に近いくらい黙っている時間が長かったんです(笑)。でも、解説って、顔が出ないじゃないですか。あっ、この仕事、意外といけるかもしれないって。いまはもう、全然平気になりました。
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「恥ずかしいんですけど」。
佐藤信人はバッグから1枚のシャツを取り出して見せてくれた。美しいほどに精確に畳まれたそれは、若かりし彼が陸軍士官学校で着用していた制服だった。
「なんでも躊躇してしまうタイプなのに、良くやったなと思います。この服を見ると自分を鼓舞できるんです。こんな僕でも、あんなにはみ出たことが、やれたじゃないか、ってね」
撮影のために持参してくれたそれを、彼は身に着けてくれた。
二つのことに驚いた。
一つは、30年以上昔のその服が、まだ体格にぴったり合ったこと。そして、もう一つは、柔和で、恥ずかしがり屋で、戦いになどまったく不向きな彼には、胸や袖がバッジだらけで、威圧感のある、軍服のようなそれが、あまりにも似合わなかったこと。
月刊ゴルフダイジェスト2024年12月号より