【ノンフィクション】“お坊さんプロ”中村映禅<前編>「こんなところでずっとゴルフができたら…」タイとの出合い、奥田プロとの出会い
タイに移り住み、“お坊さんプロゴルファー”としてさまざまな顔を持つ中村映禅(本名・晃也)。この男の、何とも摩訶不思議な、味わい深い人生とは、そして本願とは――?
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- タイで“お坊さんプロゴルファー”としてさまざまな顔を持つ中村映禅。後編では、一念発起タイに渡り、切り拓いてきた道のりを振り返ってもらった。 >>前編はこちら 一念発起しタイへ当初は公園のバナナも食べた そして副住職だった35歳のとき、人生の大きな岐路を迎える。「お坊さんで言うたら、念仏を唱えて仏さんの前で手を合わせる時間が長いほう……
実家は奈良にある650年続く浄土宗の寺である。中村映禅は、その寺「西迎院」の24代目になるつもりで幼い頃から生活していた。
「お坊さんにもピンからキリまでおって、素晴らしい方から飲み歩いている方までおります。うちの親父はホンマに尊敬できるお坊さんで、僕もそうなりたい思うて生きていたんですよ」
しかし、大学を卒業する頃、「ややこしい世界やな」と思い始めた。
「浄土宗の法然上人言うたら800年くらい前の人。お釈迦さんもそうやけど、そのお言葉を信じて、皆さんに仏教を説く。お坊さんは橋渡しの役目やないですか。でも仏教って見えないから難しい」
やればやるほどわからない世界になってくるのだという。
「いろんな書物を読んで賢くなることはもちろんやけど、仏さんが実際今でも実在している遠い世界があって、そこに命が終わったら行くために、今ここの人間の世界で修業している。そこに橋渡しの役目をするわけやから、お釈迦さんのご名代になる。だからキンキンランランのお袈裟を着るんです。でも、僕は修行して資格は取らせてもろうたけど、ホンマに代わりになっているんか。はっきりとお伝えする自信がなかったんです。うちはお寺で言うたらむちゃくちゃ立派なエエ血筋。皆立派やけど、僕一人超取り残されている気になって。自分のなかではムリやわ、しんどいわと思って」
さて、ゴルフとの出合いだ。野球少年だった中村。甲子園の常連で浄土宗の系列でもある上宮高校に進学するも、1年時にケガで野球を断念。高2の頃友人とともにゴルフを始めた。すぐにハマった。
「佛教大学に進んだのでゴルフ部はないんです。でも、プロになろうと思っていました」
お坊さん家業も行いながら、日本プロゴルフ協会のティーチングの資格を取得、ツアープロを目指し、27歳の時にはQTサードまで進んだ。
タイとの出合いもこの頃である。
「25歳の頃、奈良県の若い坊さんの研修で選抜されてアユタヤでプチ修行。当時は嫌々でしたわ。でもそのとき初めて、タイがゴルフ大国で、タイガー・ウッズのお母さんがタイ人やと知った。それでまたすぐにタイに来て、シンハー(ビール)のツアーのQTを受けて通ったんです。お坊さんもやりながら日本とタイを行ったり来たりしてタイの試合に出ていました」
タイでのゴルフは最高に気持ちよかったという。
「鳥の鳴き声、空気感……直感的に合うなあ、好きやなあ、こんなところでずっとゴルフできたらなあと。それに日本ではお坊さんでもあるから急に『お葬式やから帰ってこい』いうこともあってね」
30歳頃からはお寺の仕事が多くなり、モヤモヤも続いていた。
「お通夜などで説法はそれなりにできるんですけど、腹のなかから話をしていないから、もうしゃべれなくなってきて、“坊さんイップス”になったんですよ」
ゴルフでのイップスは、真面目で考えすぎ、練習しすぎな人がなりやすいという。
「でも、ちゃんとしたいという気持ちはむっちゃありましたよ。自分だけ何でこんな感じに思ってしまうんかなあと」
この頃、奥田靖己と出会う。奈良の“坊さんコンペ”に来ていた。
「最初の印象は最悪でした。『何やその服は』なんてカマされて、嫌な人やなあと。同組で回りパープレーで同点。でもボロカス言われました。『打ち方は酷い、何やそのフィニッシュ、ゴルフを何にもわかっとらん……』。失礼な人やなあ、二度と会いたくないわと。周りの皆にも言っていました」
数カ月後、同じコンペで再会。その日は土砂降りだった。
「奥田プロは『ゴルフ日和や、行くぞ』言うて。皆カジュアルウォーターとかやっとるのに、涼しい顔して水しぶきも上げんとチーンと打つ。技も何もかもが強烈にすごいと思った。次元が違った。前に“同点”と思った自分が恥ずかしくなって。コンペ後、弟子入りさせてもろうたんです。ゴルフで生きていきたいですと」
来るものは拒まない奥田。その後、多くのことを教えてくれた。奥田の師匠、高松志門の合宿にも行った。法要後、着物と袈裟と足袋のままコースへ行き、駐車場で着替えたこともある。
「35歳までかなりきっちり教えていただきました。一番は『グリップはやわらかく握っといてマルく振れ』。皆、自分が決めたスウィングをやろうとするけど、プロは風や景色やライをみてスウィングを変えていく。全然違います」
当時のことを奥田に聞こう。
「最初は赤いシャツ着て、チャラ男みたいな感じ。スウィングも縦に振っているからフックしか打たれんような。ボールは飛んでいたけど、いろんなことはできんプロという印象です。そしたら2回目のとき、僕が面白いことをやったから、この人に付いていこうと思ったらしい。あんな真逆なスウィングやのにホンマにやるんかいと。でもやる限りは僕も引けませんから、ずっと続けてね。僕のマネはとことんやりよった。歩き方も雰囲気も。僕も師匠をマネしてたから痛いほどわかるんです」
「柔らかく握ってマルく振る。今もコレです」
“ゆるゆる・横振り”が絶対的教え。「奥田プロは昔から直ドラしたり、ボールを埋めて打ったり。もちろん技術があるからできるんです」
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- タイで“お坊さんプロゴルファー”としてさまざまな顔を持つ中村映禅。後編では、一念発起タイに渡り、切り拓いてきた道のりを振り返ってもらった。 >>前編はこちら 一念発起しタイへ当初は公園のバナナも食べた そして副住職だった35歳のとき、人生の大きな岐路を迎える。「お坊さんで言うたら、念仏を唱えて仏さんの前で手を合わせる時間が長いほう……
週刊ゴルフダイジェスト2024年10月8日号より