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【ターニングポイント】馬場ゆかり「ツアーに出ることだけが、自分にとっての幸せではないのでは…」

福岡県八女市で教育熱心な父に育てられた。「習い事」がいつしか「仕事」になり、メャータイトル獲得を成し遂げるまでになった。そして、33歳まで、シード選手として活躍したが、「女性としての次の人生」に目を向ける。結婚、出産、子育て。プロとして、ゴルフの楽しみを伝える、新たな「仕事」。素朴で純粋な女子プロが、第二の人生へと進む、ターニングポイント──。

TEXT/Yuzuru Hirayama PHOTO/Hiroaki Arihara 

馬場ゆかり
1982年、福岡県出身。小柄な体格ながらもダイナミックなプレーでファンを魅了。11年「日本女子オープン」で念願の公式戦初優勝。04年から14年まで11年連続で賞金によるシード権を保持。ツアー3勝。

プロなのに試合に出られないもどかしさ
「何のコネもない自分は
実力で上がっていくしかない」


「天真爛漫」。無邪気な明るさと、ゴルフに対する純真さと。自身を表す四字熟語そのもののような幼少期を、馬場ゆかりは過ごしてきた。プロを目指していたわけではなく、テレビでさえ女子プロは見たことがなかった。習い事の一つとして球を打ち始め、「やめようと思ったことはなかった」というその先に、プロテスト一発合格と、見知らぬ晴れ舞台とが待っていた。


うちの家業は「くみ取り屋さん」です。今は「清掃業」っていうのかな? 10名弱の職人さんに囲まれて育って、賑やかな環境でした。父の信弘は中学を卒業してすぐ働きに出たので、私と兄妹にはちゃんと教育を受けさせたかったみたいです。習字、ピアノ、剣道と、毎日習い事をさせてくれて。そして、月水金の週3日がゴルフでした。

忙しかった父が直接教えてくれたわけではないんです。8歳からクラブを握らせてもらったのですが、いきなり近所の練習場のレッスンプロに預けられました。プロにさせようというわけではなく、あくまでも教育の一環でした。

ゴルフは、当初は好きではなかったです。田舎だから小学生ゴルファーなんて誰もいません。それに試合に出て成績がひどいと、父からのゲンコツが痛いんです(笑)。今になってみると、それでもやめようと思ったことはなかったから、真剣に続けることの大切さを、父が教育してくれていたのかもしれません。

高校までスポーツ推薦での進学はせず、父が「学力で受験しなさい」と、地元の高校を受験しました。ドライバーはそこそこ飛んでいたかもしれませんが、自分にどんな特徴があったかさえ覚えていないくらい平凡な選手でした。高校3年生の進路面談までは大学に進学するつもりだったんです。ところが日本ジュニアで3位になると、父が「プロテストを受けてみろ」と。

プロなんて言われても、私にはまったく実感が湧かなくて。テレビで父と観戦するのも、男子プロばかり。母の真理子が尾崎直道プロのファンで、私も好きでした(笑)。だから女子プロの名前さえ、ほとんど知らなかったですし。そんな私がプロテストを一発合格してしまったんです。パッと見だとスムーズですけど、部分的には苦しいときもあったんですよ。自分に喝を入れるたびに髪を切っていたら、合格のときにはすごく短くなっちゃった!(笑)

当時はステップ・アップ・ツアーもわずかしかなく、プロになったとはいえ、試合に出られなくて。テレビを見ていたらアマチュアの宮里藍さんが試合にバンバン出ているのに、なんでプロの私が出ていないのって思いがありました。地元福岡の試合でさえも推薦をもらえず、もどかしかったです。何のコネもない私は、実力で上がっていくしかない。だからコースへ通って、バッグを担いでラウンドして、帰ってからも練習場とジムとプールで体を鍛える毎日でした。

プロデビュー戦のプロミスレディスは、コースが美しいし、練習ボールも新しいし、プロの試合ってすごく楽しいなって(笑)。何も知らなかったことも、試合に出られることに感謝していたことも幸いして、プレッシャーもなく、結果は11位。父からは、「プロにするまでが俺の役目や。あとはお前の人生やから、知らん」と(笑)。口数が少ない父の言葉だけに、重みがありましたね。

“不動さんに一歩でも近づきたい”
という思いが原動力でした


華やかな女子プロの世界に、金髪にミニスカートで九州から飛び込んだ。だが予選落ちが続く苦しい3年目の2004年。励みになったのは、先んじて初優勝を遂げてゆく同期たちの存在だった。その背を追うように、ヨネックスレディスで初優勝。それは、その試合で2位だった不動裕理の一強時代に楔を打つとともに、全日ノーボギーという快挙でもあった。



2004年は春から6試合で予選落ちしたんです。4試合連続での不通過もあって、苦しかったです。さらに体調を崩して、新幹線で母が薬を届けてくれた、なんてこともあったくらいでした。ショットが悪いわけではないのに、1打足りないのはなぜなのかと、自問自答していた日々でした。同期の竹末裕美さん、北田瑠衣さん、茂木宏美さんが次々と初優勝していたし、このままじゃ置いていかれるという思いでした。

8月のヨネックスレディスも、一強時代が長く続いていた、同じ九州出身の不動裕理さんに一歩でも近づきたい、その思いが原動力でした。初日、2日目とトップでも、不動さんが2位なので余裕なんて全然なくて。ただ、自分の武器だと感じ始めていたショット力だけは負けない気持ちで攻めていきました。結果、3日間54ホール連続ボギーなしでの初優勝。同期のみんなから祝福されて、プロの世界を何も知らなかった私は、同期に引っ張ってもらったようなものなんです。本当に仲間に恵まれました。

当時は女子プロ界が一気に盛り上がってきた時代でもありました。アイドルのような可愛らしいプロもたくさんいて、追っかけのギャラリーもいて。私も「ミニモニ。」(※)していましたけど(笑)。デビュー戦から金髪に白メッシュで、横峯さくらさんのお父さんから「プロらしいね!」なんて言われちゃってました(笑)。当時応援してくれていたファンとは今でもSNSでつながっていて、ゴルフや食事会をしているんですよ!

(※)ミニモニ。…ハロー!プロジェクトに所属していた女性歌手グループ

惜敗続きのなかで手にしたメジャータイトル
「やっと終わった! って
笑うしかありませんでした」


いつかメジャータイトルを獲りたい。それが新たな目標になった。チャンス到来は2011年の日本女子オープン。勝てそうで勝てない試合が続いていたが、めげることなくシード権だけは保持してきた。その粘り強さが、「和合」での高難度のセッティングで生きた。全員がオーバーパー、有力選手が優勝戦線から次々と脱落してゆくサバイバル。通算12オーバーという珍しいスコアで目標を成し遂げた。


2011年の日本女子オープンは、和合(名古屋GC)のセッティングが難しすぎました。ティーの位置も、ピンポジションも、グリーンの速さも、男子の中日クラウンズとほぼ一緒。優勝スコアの予想さえまったくできないほどでした。

とにかく守りに徹しようと。どれだけバンカーからパーを拾うか、ボギーは仕方ない、ダボだけは叩かないように。そうしたら一時は首位から4打も離されてしまい、優勝どころか、これじゃゴルフがショボ過ぎる、プロらしいプレーをしなきゃって(笑)。

その試合は全員がオーバーパーで、後にも先にもそんな試合ないんじゃないかってくらいのスコアになりました。最終日、私が単独首位でスタートしたんですけど、6オーバーでしたから!

2位の追ってくる選手の表情をちらっとうかがうと、優勝を目指して硬くなっているように私には見えました。私はといえば、打ち過ぎていて恥ずかしくて、カッコ悪い、もうイヤだ~って(笑)。

9番ホールで、残り128ヤードの2打目をピン右奥8メートルにつけて、フックラインを読み切ってバーディが取れたんです。少しだけプロらしくできて元気になりました(笑)。最終グリーンも相手が外したことで、1打差で優勝が決まったんです。通算12オーバーだなんて、感動の涙なんてなく、やっと終わった! って笑うしかありませんでした。

それまで勝てそうで勝てない試合が続いていたので、「来年の税金、払えないかもしれないよ」って母から言われていたんです。そんなプレッシャーのかけ方あります?(笑)だからメジャー初制覇後の母の第一声は、「おめでとう」ではなく、「ごめんね」でした(笑)。

難コースに苦戦しつつも笑顔でメジャー初制覇!
2011年の日本女子オープンを12オーバーというスコアで制した馬場。母と共に「やっと終わった!」と
終始笑顔だった

ゴルフの生かし方は千差万別
「皆が喜んでくれることを
どんどんやっていきたい」


公式戦優勝回数こそ3回ながら、第一線での活躍が長い、まさにトッププロだった。2004年から2014年まで、11年連続で賞金シード権を獲得。右手首痛に悩まされた2015年、ランキング53位で惜しくもシード権を失った。幼いころの「習い事」も、そしてプロとしての「仕事」も、“継続は力なり”を信条としてきた。そんな彼女が、すっぱりと引退を決断した。そして、2019年12月30日、バースデー入籍をする。


ゴルフ中心の毎日でしたが、女性としての次の人生も大切なんじゃないかと思っていました。そして33歳のときにシードを落として、ああ、ここが節目だなと。もう一度ゴルフではい上がろうというよりも、これまでの道に感謝をして、思い切って新しい道を進もうと決めたんです。

女子プロって、その切り替えが難しいと思うんです。私も、あと2勝くらいはしたかったですし、永久シードを目指したかった。でも、ツアーに出場することだけが、自分にとっての幸せではないんじゃないかなって。だって、少し遅れてしまったら、もうできないってことも、あるじゃないですか。結婚もしたかったし、子どもも欲しかった。なので、決断が必要でした。とはいえ、結婚も出産も、お相手が必要なので、少し時間がかかりましたけど(笑)。

私は日興證券所属だったんですけど、その顧客だった1歳下の会計士、石橋篤さんとコンペで知り合いました。そのときに一緒にいたある社長さんが、「お互い独身なら結婚したらええやん」と言っていて、翌2019年に、その通りになっちゃった(笑)。しかも、入籍は私の誕生日だったんです。

息子を授かってみると、私はやっぱり、試合よりも子育て中心の生活が好きなんだなって。もちろん、子育てをしながらツアーを転戦するというのもプロとしての一つの生き方。でもゴルフの生かし方って、千差万別でいいのかなって。私の場合、皆が喜んでくれることをどんどんやっていきたい。アマチュアと一緒にラウンドをしてゴルフの楽しさを伝えること。ツアープロよりも目線を低く、気安くお客様に接してレッスンをして上達してもらうこと。シードを落としてから、あるお客様とラウンドをしていたとき、「顔つきが良くなったね」と言われたんです。これからは、戦っている顔つきではなく、穏やかな顔つきで、ゴルフをしていきたいし、ゴルフを伝えていきたいです。

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福岡県八女市にある彼女の実家は、インタビューの日も父や従業員たちが清掃業務の出入りで慌ただしかった。事務所や車庫や用具置き場がある奥手に、一棟の古びた木造の小屋が建っていた。「この中でね、来る日も来る日も、妹と一緒に球を打ってたんですよ」。中へと入ってみると、張られたネットの先に的が幾枚もぶら下げられている、そこは確かにゴルフ練習場だった。「ここでのいろんな思い出がありますけど、今が一番幸せかな」。何気なく、軽く素振りを繰り返す母のもとへ、幼いわが子が駆け寄ってきた。「はい」とボールを渡すと、その子が的に向かってそれを投げた。的には届かず、床の上に落ちて転がってゆく球を、彼女はほほ笑んで見つめていた。

月刊ゴルフダイジェスト2024年8月号より