Myゴルフダイジェスト

【ターニングポイント】増田伸洋「高校時代の経験が僕の“しぶとさ”の原点です」

自分が生まれた年に、父が始めたゴルフ練習場。そこでがむしゃらに球を打ち、6回目にしてようやくプロテストに合格した。初優勝まではさらに8年の歳月を要し、願った2勝目は2位止まりで成し遂げられず。いつしか50歳になり、練習場もまた、50歳。「まだまだ、ここで、上手くなりたい」。シニアルーキーの、ターニングポイント──。

TEXT/Yuzuru Hirayama PHOTO/Horoaki Arihara THANKS/双伸ゴルフセンター

増田伸洋 1973年、千葉県出身。高校時代はラグビーの選手として活躍。プロテストは6回目の挑戦となる98年に合格。06年「マンダムルシードよみうり」で悲願のレギュラー初優勝。23年「すまいーだカップ」でシニアツアー初優勝

「水飲むな、走れ! の世界。
本当に地獄でした(笑)」


花園を目指していたラガーマンが、筋力と根性を武器に、突如としてプロゴルファーを目指す──。
スポ根漫画の筋書きのようだが、それが増田伸洋のゴルフ人生の始まりだった。実家がゴルフ練習場ながら、子どもの頃から球打ちには「まったく興味がなかった」。しかし、人づてに聞いた亡き母の夢を、18歳の春に、遅ればせながら追いかけ始めた。


兄・秀仁の影響で、小学校では野球、中学校ではサッカーに夢中でした。ところが、「ラグビーをやれば高校に入れるぞ」と生活指導の先生に言われたんです。勉強が苦手だったので何の抵抗もなく、「はい!」と。自宅から自転車で30分ほどの流通経済大学付属柏高等学校に入学しました。

学校ができて4年目、体育科の1期生として入部したラグビー部。今思えば、理不尽なことばかりでした。水飲むな、走れ! の世界。1時間走なんかしょっちゅうで、1日6時間の練習中、水を飲ませてもらったことなんかない。本当に地獄でした(笑)。今も恩師に会うと、お前らの頃の練習をしたら、今は誰もいなくなっちゃうよと。

実家は、父の一仁が始めたゴルフ練習場を経営していました。元は田畑だったようですが、なぜ練習場を始めたのかは何も聞かされていません。開業がちょうど僕が生まれた1973年で、子どもの頃から練習場で食わせてもらっていることは知っていました。でも、僕はゴルフにはまったく興味がなく、アプローチ練習場で友だちと野球をして遊んでいました(笑)。

高校卒業後の進路は、ラグビーでの推薦入学の話を6校もの大学からいただいたんです。でも高校3年の県大会決勝で敗れて、ラグビーはもうやり切ったかなと。そんなとき、兄がゴルフ練習場を継ぐことになったんです。「男の子が2人いるんだから、どちらかをプロゴルファーに」。それが、僕が小学6年生のときに病死した母八千代の夢だったと、人づてに聞きました。じゃあ、僕が、プロゴルファーを目指してみようかと。

父に話すと、「わかった」と一言だけでした。練習場の息子なのに、父からは「練習しろ」とは言われたことがないんです。プロテストに5回落ちても、ゴルフの話をした記憶さえありません。好きなようにやらせてくれたことが、僕にはよかったと感謝しています。

「宮本、野上さんに追い付こうと
とにかく必死だった」


5回もプロテストで不合格になった練習場の息子だったが、環境には恵まれていた。
父が経営していた千葉県柏市の「双伸ゴルフセンター」は、名門・日大ゴルフ部の選手たちの練習場でもあった。野上貴夫や宮本勝昌ら、すでにアマチュアで名を馳せ、のちにプロとして活躍する面々が手本になった。そして6回目、25歳で晴れてプロテストに合格する。



千葉CCへッドプロの郡司洋さんに誘っていただき、研修生になりました。そこでキャディを務めたあとに400球ほど打ち込みし、帰宅しても実家の練習場で同じくらい打ちました。ゴルフを始めて3カ月でコースへ出て、初ラウンドは96。これまで100を叩いたことはないんです。それでもプロになるレベルというのはまた違って、挑戦は25歳までが限度かなと思っていました。

ちょうどその頃、実家の練習場には日大ゴルフ部のそうそうたるメンバーが集まって腕を磨いていました。そのうちの一人が、同学年の宮本勝昌でした。大学1年生にして日本アマを制していただけあって、彼のショットは真っすぐで美しい弾道でした。僕はといえば、ラグビーで鍛えた筋力で290ヤードくらいは飛ばせるのですが、左右に曲げてはネットにぶつけていました(笑)。

1学年上の野上貴夫さんも、練習場の近所に住んでいました。宮本や野上さんが練習に来ると、近くの打席で見様見真似、技術を盗むように練習しました。プロ志願者はジュニアからやってきた人たちばかり。僕だけは18歳から始めたので、いつか宮本や野上さんに追い付こうと、とにかく必死でした。

5回目に不合格だったときは、やっぱり無理かと本気で思いました。今年が最後と覚悟を決めて受けた6回目。この1998年は、アジアに武者修行へ出始めた年でもありました。芝質や気候に戸惑いながらも戦い続けたことで、もうひと伸びできた感覚があったんです。合格したのは、これが限度と決めていた25歳のことでした。

「力じゃ勝てない。
頭で考えないと!」


父が設立し、伸洋の名の一字を付けた練習場から巣立ってプロにはなれた。しかし、アジアでの武者修行が長らく続く日々。国内で勝つことなど思いもよらなかった。
転機はプロ8年目の2006年マンダムルシードよみうりオープン。初めて巡ってきた、トップタイで迎えた最終日最終組のチャンス。順位を知らずに最終ホールへと向かったその日は、奇しくも「父の日」だった。


「プロゴルファーになる」と僕が言ったとき、高校の1学年下で付き合っていた彼女からは、「バカ言ってんじゃないわよ」って言われました(笑)。それでも僕が本気だとわかると、その彼女の母親が、「コンビニ弁当ばかりじゃしょうがないから、一緒に暮らして娘に面倒見てもらいなさい」と。そしてプロテストに合格すると、「一応職業に就いたんだから、籍を入れなさい」と。そうして結婚したのが、妻の聖子です(笑)。ただ、プロになったからといって、すぐに稼げたわけではないんです。ゴルフ場から給料はもらっていましたけど、妻も小学校の事務員などをして共働きしてくれました。

どうせ国内で試合に出られないのなら、アジアで修行を続けようと、安い航空チケットを探しては飛び回っていました(笑)。2002年に長男の康輔が、2005年に長女の沙姫が生まれ、もっと稼がなければならなくなりました。アジアの長旅から帰国すると、家族から「臭い!」とよく言われました。香辛料の臭いなのか、何なのか、「アジア臭い」って(笑)。成田空港で洗濯物を渡して、新しい着替えを受け取って、また海外へ、なんてこともやりました。

ようやく国内レギュラーツアーでチャンスが来たのは、33歳になった2006年のマンダムルシードよみうりオープンでした。その2年前から伊澤利光さんと冬合宿を一緒にさせていただき、その試合前もアドバイスをもらったんです。グリーン周りのラフが、球が潜ってしまうほどに深く、近い距離なのに飛びすぎたり、遠い距離なのに足りなかったり。自分の引き出しには答えがなくて。これ、どうやって打ったらいいんですか? って。伊澤さんは、もっと短く持ってとか、フェースはこのくらい開いてとか、アプローチ練習場でラフの状況に応じた打ち方を教えてくれました。

それでも、僕には勝てる気なんかまったくしなかったのに、最終日、首位タイに立っちゃったんです。キャディの進藤大典くんからは、「リーダーズボードを見ないでプレーしてください。僕がティーイングエリアでアイアンを出したらリードしているってことですから」って。だからまったく順位を気にすることなく向かった最終ホール、パッと3番アイアンを渡されて。安全に刻んでボギーでフィニッシュ(笑)。1打差で逃げ切りました。

豪快なスウィングで圧倒的な飛距離が持ち前

2006年マンダムルシードよみうりオープンで優勝したころのドライバーショット。290ヤードを超えツアーでも屈指の飛ばし屋だった

試合に出られないプロも結構いますし、勝たないで終わっちゃうプロはもっといます。だから、いつかは1勝をという思いはありました。その初優勝が、ちょうど「父の日」で、父にウィニングボールをあげることができると思うと、自然と涙がこぼれましたね。

「やすやすと抜かれるわけにはいかないね。
目の前に立ちはだかってやろうかな(笑)」


ラガーマンだった高校時代のように、がむしゃらに走り続けてきたプロゴルフ人生。初優勝後は2位止まりで、2勝目こそ叶わなかった。それでもシード選手としてトッププロの一員になれた。
50歳になり、シニア入りを目前にして、ふと振り返ると、そこには、成長した息子の姿が。同じ練習場からプロを目指すという息子に、シニア入りした父は、いったい何を見せたのか。


初優勝のあと、2勝、3勝といければという気持ちもあったんですけど、それは難しいとわかってきました。僕の場合、調子が悪くなると、どこまでもズルズルいってしまう。それが技術的な問題なのか、メンタルなのかを試行錯誤してきて、何の答えもないまま、50歳になってしまいました。

ラグビーをやっていて、体力があるものだから、コースを力でねじ伏せにいってしまう、そんな不器用さも災いしていました。勝ちを重ねる人との違いは、痛いほどわかっている。力じゃ勝てない。頭で考えないと! だけど、そんなことができる僕ではないんです。

2012年にシード落ちしましたが、それでもまだゴルフが上手くなりたいし、この先もしぶとくいきたいと思っています。シニアツアーで戦うようになって、再び伊澤さんと一緒に行動することが多くなったのですが、賞金王として頂点に立った技術は本当に凄い! 少しでも近づきたいですね。

そんなとき息子が「プロゴルファーを目指したい」と。息子にだけは、この職業を絶対にやらせたくなかったんです。なぜなら、本当に厳しいから。だって僕は幼い頃の息子に、「たまに家に来るおじさん」と思われていたほど、家にはいられませんでした。そうやって努力しても、1勝がやっと。

だけど、息子がYouTubeなんかを見ながらちょこちょこ練習している姿を見ると、そんなヤツに、やすやすと抜かれるわけにはいかないね、目の前に立ちはだかってやろうかなって(笑)。

そうして迎えた昨年のすまいーだカップ。シニアのルーキーとしてプロ2勝目が挙げられるなんて、これもまったく思ってもみないことでした。しかも不思議なことに、その日は66歳のときに癌で亡くなり、13回忌を終えたばかりの父の命日でした。その父からは、何も言われずに伸び伸びとやらせてもらったのに、僕は今、息子とケンカをしています。YouTubeなんか見てどうするよ! プロを見てみろ、プロが100人いたら、100通りの違うスウィングがあるだろ! それはみんながそれぞれ球を打ちまくって、自分のものにしてきた技術なんだぞ! ってね(笑)。

●     ●     ●

真冬の「双伸ゴルフセンター」には、客が多くはなかった。
そのクラブハウスの玄関を入って正面には、若き日の増田伸洋が初優勝のカップを掲げる、色あせたパネルが飾られていた。そして、50歳にしてようやくプロ2勝目を挙げた祝いの胡蝶蘭がずらり。
クラブハウスのテーブルでは、彼の一人息子が練習前の食事を、かき込んでいた。
「不思議ですよね」
父親が息子を指さして言った。
「野球をしていたコイツが、急にゴルフなんて言いだしやがって。でも、僕も同じだったんですよね。僕はラグビーでしたけど」
彼と同い年の練習場も、昨年50歳を迎えた。
彼の父が始めたここから、彼が巣立ち、そして、若き日の彼に面差しのよく似た息子が、やがて巣立とうとしている。

月刊ゴルフダイジェスト2024年4月号より