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【ターニングポイント】東聡「いくつになっても“勝ちたい欲”は消えないんです」

ジャンボ尾崎を「神様」と仰ぎ、いつか勝てる日が来ればと夢見てきた。それを成し遂げた1995年、ジャンボに次ぐ賞金ランキング2位に。しかし同年、肩を痛めてシード権喪失。その後舞台をシニアへ移し、優勝から遠ざかること10年の今年、妻が初めてキャディを務めた試合で、奇跡が起きる──。

TEXT/Yuzuru Hirayama PHOTO/Takanori Miki

東聡 ひがし・さとし。1960年生まれ、東京都出身。11歳でゴルフを始め、1983年のプロテストに一発合格。87年「よみうりサッポロビールオープン」で初優勝。95年に年間4勝を挙げ、賞金ランク2位。レギュラーツアー7勝、シニアツアー2勝

「ジャンボを見て“ひょっとしたら”
と思った自分がいた」


指標となる人物に追いつこうとすることで、いつしか成長していることがある。
東聡にとっては、高校3年生の最後の試合で現れた金子柱憲がそれだった。同じ大学に入学し、同じ年にプロテストに合格。そしてプロ入り後に現れた指標は、子どもの時にも試合で見た巨大な存在、ジャンボ尾崎だった。


生まれは東京ですが、小学2年生のときに教育関連の出版社に勤務していた父、武の転勤で宮崎へ移り住みました。小学5年生までは野球に夢中でした。ところが父がゴルフを始めて、霧島CCでのコンペに、たまたまついていったんです。コンペに1名欠席者が出て、父が僕を入れちゃった(笑)。それがゴルフとの出合いでした。

コースで女性用のクラブを借りて、野球で動く球を打っていたわけだから、ゴルフぐらいできるだろうと思ってプレーしました。ワンハーフまわって、スコアは、53、49、63。ラウンド前に父が「アマチュアはハーフ40台が出せたら凄いんだぞ」と話していたので、練習さえしたことがない僕が出せてしまうんだから、ゴルフって面白くもない競技だなと(笑)。周囲は大騒ぎしていましたけどね。

その数年後に父と一緒にダンロップフェニックスを観戦に行きました。外国人選手がいて、こんな大柄の選手たちに勝てる日本人がいるなんて当時は思えなくて。すると花柄のパンツをはいた大柄な日本人選手が、外国人よりも遠くへ飛ばしていました。それが、ジャンボ尾崎だったんです。ジャンボを見て、「ひょっとしたら」と思った自分がいました。18番ホールで見たジャンボのティーショットがなかったら、ゴルフに興味を持たなかったでしょうね。

東京へ戻って堀越学園高校に入学してゴルフ部へ。活動は屋上の鳥籠で打つのと、新宿御苑までランニングして帰ってくるだけ。高校時代の戦績なんか覚えていない(笑)。ただ3年生の最後の試合で、金子(柱憲=日本大学高等学校)と回ったんです。あいつは物凄い強さで、あいつが行くのなら僕も、と日本大学へ進学しました。

日本大学では全部員80人のうち、8人だけが試合に出られる。そこに入れれば、大学生ではトップレベルだろうと。文部大臣杯を1年生で、日本学生を4年生で獲るんですけど、僕の相手は同じ大学の金子しかいないと思っていました。他の選手なんて関係ない。金子に勝てればナンバーワン。そういう思いで、朝9時から夜11時まで練習場にいたし、コースへ出たら球が見えなくなるまで練習グリーンにいました。僕は飛距離も出ないし、ショットもそこそこ。ただ、パターで粘る。パターだけは、距離に関係なく、自分のタッチには当時から自信を持っていました。

プロテストはトップで通過しなければ、プロで活躍することなんてできないと。結果は、僕がトップで、金子が2位。思い返せば僕のゴルフ人生にはいつも、僕より前を走ってくれる、途轍もなく上のレベルの人がいてくれたんです。

「ジャンボ軍団って
毎週その中の誰かが勝つから
2位じゃ、意味ないんです」


「ゴルフの神様」。
師匠、ジャンボ尾崎のことを、東はそう呼ぶ。
365日顔を付き合わせるようにして師匠とともに練習に励んだ。飛ばし屋が揃う軍団の中、彼だけ異質だった。球筋を変えるスウィング改造に着手し、初優勝はドライバーを握れずに2番アイアンでティーショットしての快挙だった。



プロデビュー後、「とりあえずイギリスやアメリカへでも行ってみるか」と、金子と2人で全英オープンのマンデーに行きました。そこにジェット(尾崎健夫)と飯合(肇)さんが来ていて、一緒にセント・アンドリュースの近くに一軒家を借りました。結局は4人とも不通過でしたけど、この縁で「ジャンボのところで練習するか?」と誘っていただいたんです。

冬合宿にジャンボの家に泊めていただくと、夜中まで僕と金子の練習をジャンボが見てくれました。それからは試合中でも、ホテルの部屋に2人呼ばれて素振りをしたり、試合から帰ってきてもまたジャンボの家で練習したり。

ジャンボの教えは、部分的なものではなく、技術すべてです。まずは飛距離でアドバンテージを取ること。そのために球筋をフェードからドローに変えようと、スウィングだけでなく、グリップから目標への目線など、それまでやってきたことをすべて捨てました。2年間はドライバーが使い物にならず、右にも左にもミスが出て。だから1987年のよみうりオープンでの初優勝も、パー3以外のティーショットは2番アイアン。優勝したといっても誇れるはずがない。ドライバーも打てないヤツが、ジャンボ軍団にいていいのかなって(笑)。

プロ入り5年目の87年にツアー初優勝

ドライバーを1回も握らず、パー3以外のティーショットを2番アイアンで打ってつかんだ勝利だった

3年後にドライバーを打てるようになったのは、ジャンボのところにあったクラブを散々使わせてもらい、ようやくフィットする一本を見つけられたおかげ。それでも軍団のみんなが300ヤード近く飛ばしているのに、僕は275ヤード。恥ずかしい限りでした(笑)。そして1990年の日経杯と、1991年の日本マッチプレー選手権で勝てましたが、年に一度ずつの優勝なんて、何の価値もない。ジャンボ軍団って毎週その中の誰かが勝つから、2位じゃ意味ないんです。それに単発で勝ってもお話にならない。ジャンボ軍団って、そんな感じなんです。

練習を重ねて自分のスウィングを見つけた東が、一番大切にしているのはアドレスの取り方。「スタンスはクローズで肩や腰はスクエア。最後に目線で狙った方向を確認します」

「思ったところへ止められない。
自分の中で“ゲームセット”でしたね」


1995年、パッティングを武器に賞金ランキング2位となり、賞金王のジャンボ尾崎とともに、夢のマスターズの舞台へ。
ところが、無惨にオーガスタに跳ね返されて予選落ちしてしまう。東は予想がつかないグリーンのアンジュレーションに混乱を来す。しかも帰国後もオーガスタの悪影響が続いてパッティングに苦悩する。やがてはシードも16年目に途絶えさせてしまう。


当時の選手たちにとって、年に複数回勝つということはかなり困難なことなんです。なぜなら、勝たせてくれない絶対的なジャンボがいるから。ジャンボに勝つなんて不可能だと思っていました。僕が絶好調の試合でも、必ず上にはジャンボがいて、優勝してしまうんですから。だからジャンボがちょっとこぼしているときに、他の選手たちがどう拾っていくかという勝負です(笑)。

結婚した妻の美和子もジャンボと縁があって、ジャンボの知人が妻の知り合いだったんです。妻と1995年のシーズンオフにデパートで買い物をしていたら、ゴルフ売場に気になるパターを見つけました。ピンの5KS。ヘッドはオーソドックスですけど、長いスラントネックが変わっていて、一目で気に入って「これ買うね!」って。このパターとの出合いが大きくて、4月のマンシングウェアカップ、つるやオープンと、それまでどうしてもできなかった複数回優勝ができたんです。ジャンボが僕のパッティングを見て「おまえ、どこからでも入るな」って。

この年、3勝目のジュンクラシックでは、最終日の最終組でジャンボとまわりました。ジャンボが引退するまでにジャンボと最終組でまわって勝つというのが僕の夢でした。だけどこの試合、僕が勝ったというより、ジャンボがパッティングの調子が悪くて、失礼なことを言うと、あれだけ外してくれたら勝てるわなって。1打差で夢を達成できたけど、いまだに勝てたという実感がないです(笑)。

賞金ランキングでジャンボの後ろで2位となって、翌年2人でマスターズに出場しました。だけど水曜日の練習の最初の10番グリーンでの5メートルのパターを打った瞬間、考えられないところへ転がって、グリーンから出ていっちゃった。僕の技術ではどうにもならない。ラインの予想がまったくつかない。思ったところに止められない。本戦が始まる前なのに、自分の中で「ゲームセット」でしたね。

それからというもの、帰国してからパターの感覚が狂ってしまい、僕のパッティングが壊れちゃった。とにかく日本のグリーンが遅く感じてね。30センチさえ、どう打っていいかわからなくなってしまって。そこからはしばらく、武器にしていたはずのパターを握るのも嫌になってしまい、つらかったですね。

「まだまだ負けないよ。
さらに成長してみせます!」


気の遠くなるような長い辛苦の末に、奇跡は起きる。
絶好調だった1995年に左肩を壊し、痛みとの闘いが20年以上も続いた。それでも諦めず、果てしがないような闘いに勝利し、彼はまたシニア界で輝きを放つ。その間にあった彼の思いは、「ゴルフが好きだ」という、純真さだった。


シニアに移行しても、いくつになっても、「勝ちたい欲」は消えないんです。パッティングは、道具の長さや重さなどいろいろと変えたり、ひたすら球数を打ったりして、感覚を取り戻しました。でも、1995年に左肩を痛めて、ハードヒットができない。もちろん、球は飛ばず、勝負にならない。

勝てないときが長く続きましたけど、諦めてしまいたくないんです。学生時代から誰よりも球を打ってここまで来たわけです。だから肩の痛みは、その代償。もう、ゴルフも半分面白くない。けれど、ゴルフが好きだし、練習もしたい。そんな状態が20年以上も続いて一昨年、腱板がほぼ断裂しているのがわかって、新たな治療をしました。そして、「あれ! 痛くない」となったのが、昨年だったんです。

そして、「勝てるかもしれない」と実感したのは、金秀シニア沖縄オープンの試合中でした。たまたま、いつもジャンボと合宿でまわっていた沖縄かねひで喜瀬CC。しかもその試合だけ、これもたまたま妻がキャディを務めてくれたんです。もちろん初めてのことで、シニアではキャディもカートに乗れるから、「ギャラリーとして歩かなくて済むね」って(笑)。

初日ハーフを終えて6アンダーで、レギュラー時代に勝てたときのいい感触が久々に戻ってきたんです。この試合では奇跡のようなことがたくさんあって、最終18番のパー5で足が滑ってミスをしたんです。転がった先は雨が降ったあとで土がグチャグチャ。これはもう最悪だと。ところが球が止まっていたのは、そこだけほんの少し芝が生えていて、しかも順目で、「さあ、勝ってください」と言われているような、まるでティーアップしたかのようなライでした。練習場のマットよりも易しくて、それをピンそば1メートルに寄せました。

最終グリーン、キャディの妻がパターを持ってきて、それを外しても勝てるのに、「落ち着いて! 深呼吸して!」って。何言ってるんだって(笑)。私がいたから勝てたと勝利の女神のように思われても困るんだけど、その後、妻がいない試合で勝てていません(笑)。だから、いなくても負けないよって、証明してみせなくちゃね。さらに成長してみせます!

金秀シニア沖縄オープンで10年ぶりの優勝

妻・美和子さんを初めてキャディに起用し、二人三脚でつかんだ久しぶりの優勝。美和子さんはウィニングパットの前から泣いていたという

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蒸し暑い日の都内のスタジオでの、長いインタビューの終わり際。帰り支度をしている東に、もう一つだけ、やはり、「神様」について聞いてみた。
「いいえ」と彼はかぶりを振った。尾崎将司との交流についてである。
「最近はもう、会っていないんです。僕の場合、ジャンボと仲良くワイワイさせていただくような関係では、もともとないですから」
若き日に365日共にしたが、もう練習ばかりではなく、会食することさえ、近年はないという。
「僕は、今も昔も、ジャンボと目を見て話すことができないんです。だって僕はジャンボを、神様だと思っていますから。神様と普通に話すことなんて、できるはずないじゃないですか」
けれども、彼は付け加える。
「会っていなくても、もちろん、感謝の気持ちを忘れたことはありません。ジャンボの教えがなければ、ゴルフをここまでやれていないし、今、こんなインタビューも、受けていないでしょうから」
試合で勝つこと。それが東にとって、神様への感謝の言葉でもあるのだろう。

月刊ゴルフダイジェスト2023年10月号より

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