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【ターニングポイント】鈴木亨「僕は根っからの“ゴルフバカ”なんです」

厳格な父の指導と仕事の手伝いで少年時代は過酷だった。プロになっても4年はほぼ試合にも出られなかった。それでもツアー8勝、18年連続シード、シニアでも6勝。その陰には支えてくれた家族の存在があった。

TEXT/Yuzuru Hirayama PHOTO/Takanori Miki THANKS/季美の森ゴルフ倶楽部

鈴木亨 すずき・とおる。1966年、岐阜県出身。身長178センチ、日本大学ゴルフ部時代は「日本アマ」などのタイトルを獲得。89年にプロ転向後、ツアー通算8勝。11年までシード選手として長年活躍。22年「ファンケルクラシック」でシニアツアー通算6勝目。ミズノ所属

「父との約束がなかったら
プロゴルファーには
ならなかったかもしれない」


いやおうなく子どもは親の影響を受けて育つ。
父が練習場を経営していたことで、遊びも自然と球打ちになった。真っすぐ飛ばしたり、ヤード標識へ正確に当てたりすることが楽しかった。ゴルフが上手にもなったが、父の指導と球洗いの労働は過酷だった。そして、大学生になってからの「約束」も


父の基之(もとゆき)は立教大学の野球部卒で、長嶋茂雄さんの一つ下でした。そんな偉大な先輩を見て野球は断念し、証券会社に就職したんです。その後脱サラして故郷の岐阜市内でゴルフ練習場を始めました。

僕は小学3年生からゴルフを始めたんですけど、「岐阜版巨人の星」と地元紙で記事にされるくらい父は厳しかったです。走らされたり、正座させられたり。見ていたお客さんたちが、「そこまでやらなくてもいいんじゃない?」と言うくらいに。「昭和の親父」の典型で、怖くて高校を卒業するまで面と向かって話しかけたことはありませんでした。ゴルフの話でさえ僕からできるわけでもなく、一方的に父の話を聞くばかり。口答えすることなんか一切考えられません。

中学生のときに「プロになりたい」と父に言ったんです。でもそんな年齢で深い考えはないじゃないですか。そうしたら父が「プロは厳しい世界だから、上手くいかないこともあるだろうけれど、それでもゴルフをやり通せ」と、初めてクラブを作ってくれたんです。中学2年生で初ラウンドしてスコアは110でした。

ゴルフ自体は楽しくて好きでしたが、その当時の生活は厳しいものでした。借金をして始めた練習場だったので裕福ではなく、子どもでも働くのは当たり前でした。下校したら家から練習場まで2キロを走って通い、農家の人が手伝いで拾ってくれた練習場の球を洗うのが僕の役目です。600個入るカゴを20箱ぐらい、運んでは機械に入れてというのを繰り返して。お客さんが多い日は憂鬱でね。お客さんが多くなければ収入が困るのに、子どもだからそこまで考えられなくて(笑)。

愛工大名電高校を経て日本大学へ進学しました。同い年で怪物のような素材の(川岸)良兼が行くと聞いて、僕もと決めたのもありました。彼は飛ばすだけではなく、小技も上手くてね。父からは、「良兼と同じことをしていたら勝てないぞ、おまえは努力するしかないんだ」と。その大学時代に父と約束したんです。在学中に「日本」と名の付くタイトルホルダーになれたら、プロになってもいいと。研修生になってまでプロを目指すというのは許されませんでした。

当時の日大はみんながプロを目指しているというわけではなく、今のような合宿所もないですし、集まってトレーニングするのは冬の合宿くらい。僕は練習場の近くに住んで、大学へも行かなくなってしまうぐらい練習していました。それで3年生のときに日本アマを獲れたんですけど、あの父との約束がなかったらプロゴルファーにはならなかったかもしれない。


「あの日々があったから
優勝できる選手になれた」


スランプを先にこなしてしまう、という発想がある。
1989年にはプロテストに合格するも、4年間はほとんど試合に出場せず、練習場で毎日を過ごした。元プロ野球選手で尾崎将司や中嶋常幸らを指導して「名軍師」と称された後藤修氏に師事。打ち方はもちろんのこと、走り方や食べ方に至るまで直された。努力は実り、1993年のジュンクラシックでツアー初優勝。その師匠が語ったのが、「スランプをプロになる前に、先にやっていると思え」という発想だった。


プロテスト合格後も、予選会には行かずにずっと練習ばかりしていました。プロになった直後に出会った後藤修さんから、来る日も来る日も基本を叩き込まれました。良兼はすでにプロ2年目からツアーで活躍していましたけど、僕はスウィングを根本からやり直させられて、ラウンドしたら92ということさえありました。

練習は午前と午後の2部制で、朝8時から夜の8時まで。ゴルフを「ゴルフ道」ととらえている後藤さんからは、生活面まで厳しく指導されました。例えば信号無視をして事故がなかったら、「それは運が良かったのではなく、ゴルフに運を使えないということだ」と。

その後藤さんは、量をこなすのではなく、正しいことを確実にやれという教えでした。4年後にようやくツアーに出場するようになったんですけど、基礎からやったプロセスを積んでいたので、自信は多少ついていたかもしれません。1993年のジュンクラシックでツアー初優勝できました。後藤さんとのあの日々があったから優勝できる選手になれたと言えると思っています。練習中に後藤さんはこう言ってくれたんです。「プロで活躍する選手でも、必ずスランプは来る。それならおまえはそのスランプをプロになる前に、先にやっていると思えばいい」と。そのときは、この人は何を言っているのかなってわからなかったですけど、後藤さんからしたらジュンクラシックに勝ったときも、設計図どおりだったのかもしれませんね。

ツアー優勝までの道のりは長かった

後藤修さんに基本を叩き込まれ、スウィングを根本から修正し、プロ4年目にして初優勝を遂げた鈴木。オフには当時、同じミズノに所属していた中嶋常幸とトレーニングをすることが多かった

家族に恵まれたこと!
これだけは胸を張って言える


人生は、仕事ばかりとは限らない。
最愛の妻・京子さんは、自身もプロゴルファーだったが、結婚後は陰ながら彼のゴルフを支えてくれた。彼もそれに応え、当時ツアー最長記録だった18年間連続シードを獲得するなど活躍した。
しかし、2002年から長女・愛理さんが芸能活動を始めると葛藤が生じる。妻はもちろん、彼までも娘を支える側にまわり、プロとしての生活が揺らいでいることに疑問を感じた。
2004年、単身オーストラリアへと渡ってゴルフに専念する日々。そこで偶然目にしたある光景が、彼にとってのターニングポイントとなった。


妻とは大学時代に付き合っていて、一度別れて、また付き合って、また別れて(笑)。お互いゴルフをやっていましたし、父も厳しくて、共通することはあったんですけど、いろいろあって僕がふられて。しばらくしてミズノ東京オープンに他の選手を応援するために彼女が来ていて、僕のプレーも見てくれたんです。それでもう一度付き合って、27歳のときに結婚しました。あらためて言うのも恥ずかしいけど(笑)、目がくりっとして可愛らしくて、見た目がタイプだったし、性格は僕にないところがたくさんあって。それに、「昭和の女」なんですよ、尽くしてくれるんです。

僕はめちゃくちゃネガティブです。ある日のラウンドで失敗すると、それを引きずってバックギアに入れちゃうタイプ。そんな僕を後押しして、「行ってきなさい!」と前を向かせてくれるのが妻です。ところが支えてくれていた妻が、2002年から娘が芸能活動を始めたことで、送迎など大変になったんです。それまでは妻の目が僕だけに向けられていたのが、そうではなくなって。僕も予選落ちしたらその後に娘の送迎をして。夜の10時に終わるからと待っていたら、12時になっても終わらないでひたすら車で待つだけ。プロとしてこんなことをやっていて大丈夫かと思いました。その場から逃げたいという自分もいて、2004年のオフにオーストラリアへ行って、ゴルフに明け暮れました。

だけど、オーストラリアのレストランで食事しているとき、楽しげに子どもと食事している父親を見たんです。僕は何をしているんだろうと。自分のゴルフだけがいい人生では駄目だ。家族も含めての幸せじゃないかと感じたんです。

今は娘のライブへ行くと、娘が観客を楽しませたり、元気づけたり、感動させたりできる人に成長してくれていることがわかります。僕なんか自分のためにゴルフをしているだけだから、ああいうのが本当のプロっていうんだろうなって(笑)。それに息子も、僕のキャディをやってくれて、すごく思いやりがあるんです。今はどれだけ娘や息子から励まされているかわかりません。プロゴルファーとしてはまだまだ足りない部分もあるだろうけど、僕は誰にも負けないくらい幸せな男だと自慢できます。家族に恵まれたこと! これだけは胸を張って言えるから。

達成感がないから今もやってるんです。
もっとゴルフ、上手くなりたいなぁ~(笑)


それが成功なのかは、他人の目からはわからない。
レギュラーツアーで長らく活躍し、2016年からはシニアでも6勝し、毎年賞金ランキング上位にいる。もうやり残したことがないようにさえ思えるゴルフ人生。
しかし、今年で57歳になる彼は、少年時代から続けてきた努力をやめようとしない。自称「ゴルフバカ」が求めているものとは。


中嶋(常幸)さんからは「マスターズに行かなきゃ駄目だ」と言ってもらっていたのに行けなかった。賞金王にだってなれなかったし、国内メジャーも獲っていない。18年連続シードにしても、中身を見ればアップダウンが激しくて予選落ちも結構している。妻からも、「あなたはこんな程度じゃダメでしょ」と言われるんだけど、確かに、今までゴルフをやってきて、達成感がないんですよ。達成感がないから、今もゴルフをやってるんです。もっとゴルフ、上手くなりたいなぁと本気で思いますから。

だから、朝起きて、練習することが苦じゃないんです。今の自分に足りないものを求めて、走ろう、球を打とう、ストレッチをしようって。僕にとっては当たり前のことなんです。妻からも「まだ私はあなたを男にできていない」と言われます(笑)。妻は、自分のために生きてきた人のようには僕の目には見えないので、僕のために生きてきてくれた分、もうちょっと喜ばせてあげたいと思うんですよ。「男になった!」そう妻が思えるくらいにね(笑)。

僕も頑張っている気でいるんですけど、何かを極めているような人は、もっと凄いんでしょうね。遊んでいて何かを極められるような人はいないでしょ。イチローさんがCMで「趣味、野球」と言っていますよね。昔は野球しかできない人を野球バカと称してさげすむような感じがあったじゃないですか。僕は、「趣味、ゴルフ」の、根っからのゴルフバカでも、いいんじゃないかなって。

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インタビューを行った日は、彼と妻の29回目となる結婚記念日の翌日だった。何か特別なことをしたのか聞くと、「妻は自分のものを何も欲しがらないし、僕がサプライズなんかできない性格だとわかっているから」と、少し豪華なランチをしてゆっくり一緒に過ごしただけだという。
29年前、結婚式で妻からはめてもらった指輪を、彼はあまり外さないという。インタビュー後、珍しくそれを左手の薬指から外して見せてくれた。
「プレー中、他のプロは外すの? 僕は練習中でさえも外しません」
クラブを握りしめてきたことで、それはゆがんでしまい、楕円になっていた。けれども、妻に励まされ続け、彼が励み続ける夫婦の輪は、これからもずっと、ゆがみのない、真円であり続けるのだろう。

月刊ゴルフダイジェスト2023年3月号より