【ゴルフ初物語】Vol.102 大分県初のゴルフ場は1930年開場の別府ゴルフ倶楽部
九州初のゴルフ場は1913年に開場した長崎の雲仙ゴルフ場。それから17年後に、現存するコースとしては雲仙に次いで2番目に古い別府ゴルフ倶楽部が開場した。
「別府観光の父」と呼ばれる油屋熊八が、大阪商船の協力を得て造った9ホールの「別府ゴルフリンクス」としてスタートした別府GC。日本人初のプロゴルファー・福井覚治と、日本初のゴルフ雑誌を創刊し、廣野GC造成の現場監督を務めるなど、日本のゴルフ草創期に多大な影響を与えた伊藤長蔵が共同設計。伊藤は初めてこの地を目の当たりにしたときに、1本の木もなく広がるススキ野を見て、「スコットランドにそっくりだ」と言ったという。
その後、18ホールとなり、戦後の1955年に9ホール増設し、九州初の27ホールとなる。93年には、さらに9ホール増やして、現在は戦前に造られた鶴見コースと戦後の由布コースの36ホールとなっている。戦後に植えられた杉と檜が大きく育っているが、鶴見コース1番ティーから見える由布岳と鶴見岳の姿は今も昔も変わらない。
油屋熊八は大阪の米相場で成功し、「油屋将軍」とまで呼ばれるが、日清戦争後に失敗して全財産を失い35歳で渡米。約3年間の放浪中にゴルフに出合ったといわれている。帰国後、妻が身を寄せていた別府を訪ね、その温泉群に魅了され、別府を観光地として商業化することに尽力。その一環としてゴルフ場を建設し、温泉保養地とスポーツを組み合わせた新しいレジャーの形を提案した。
ほかにも現在の九州横断の道、やまなみハイウェイの原型である別府〜長崎間の自動車道建設を提唱。日本初の女性バスガイドによる案内付きの観光バスで別府地獄めぐりの運行を開始。そして「山は富士、海は瀬戸内、湯は別府」というキャッチフレーズを考案し、これを刻んだ標柱を富士山山頂付近に建てたという。また、温泉マーク「♨」を考案したのも油屋熊八だという説もある。
「別府駅頭風景」には別府駅のホームに飲泉があり、女性がひしゃくで温泉を飲んでいるシーンが描かれている。葉書の左下には温泉マーク
週刊ゴルフダイジェスト2022年10月11日号より