【ゴルフ初物語】Vol.95 全英オープンで初めてレフェリーを務めた日本人
今年の全英オープンはセントアンドリュース・オールドコースで開かれたが、同じオールドコースで開かれた32年前の全英オープンでは日本人が初めてレフェリーを務めた。
初日のファルドの組で競技委員デビュー
1961年、アーノルド・パーマーが全英オープンに優勝すると、ジャック・ニクラス、トム・ワトソンら米国勢が続々と参戦するようになる。この頃はまだ後ろの何組かに、数人のレフェリーが付くだけで、その他のホールで問題が起これば本部から駆け付けるというシステムだった。だが、これでメジャーと呼べるのか、との声がR&A内部から上がり、90年のセントアンドリュースでの大会から各組に帯同することが決定した。しかし、それには競技委員が足りない。しかも、テレビ中継を通じて世界中が注目しており、下手な競技委員では全英オープンの名折れとなる。何年もかけて候補者を絞り込み、そのひとりが川田太三だった。
伏線はあった。88年の、2年に1度行われる世界アマチュアゴルフチーム選手権。普段はR&AとUSGAのレフェリーだけでまかなっていたのだが、開催コースは池が多く、とくに17番はホール全体が池に囲まれている。そこで日本の団長として派遣されていた川田が急遽、17、18番での定点レフェリーを任され、大会期間中に36件ものルーリングをひとりでこなしたのだ。その2年前の大会ではUSGA会長と後にR&Aキャプテンになる人物と親善ラウンドを行っていたこともあり、89年の夏、川田の事務所にFAXが送られてきた。指定の項目を書き込んで送り返したところ、翌90年5月「貴殿はR&Aのメンバーになりました」との手紙が届く。FAXはR&Aメンバーになるための申込書だったのだ。
そして手紙には「7月の全英オープンに競技委員として来られよ」とも書かれてあった。その年から20回も全英で競技委員を務めたが、初めて付いたのは、その年に優勝したニック・ファルドの組だった。
川田太三
1944年2月20日生まれ、東京都出身。日本ゴルフコース設計者協会理事長、コース設計家、英国R&A会員、米国ゴルフダイジェスト誌パネリスト。2013年には全米オープン、全米シニアオープンでのボランティア(競技委員)、そして国際親善大使など、長年にわたるゴルフ競技への貢献が認められ、USGAから「ジョー・ダイ賞」が贈られた
週刊ゴルフダイジェスト2022年8月16日号より