【陳さんとまわろう!】Vol.256 東京GCの2番と17番、思い出深いホールです
今年の日本オープンが行われた東京ゴルフ倶楽部。かつて所属していた陳さんが思い出話を語る
TEXT/Ken Tsukada ILLUST/Takashi Matsumoto PHOTO/Tadashi Anezaki THANKS/河口湖CC、久我山ゴルフ
いい練習環境で技術が向上した
──10月に日本オープンが行われた東京ゴルフ倶楽部はかつて陳さんが所属していたコースでした。
陳さん そうだねえ。1959年8月から6年間お世話になりました。自由に練習もラウンドもさせてもらったおかげで技術が目に見えて向上してね、結果、いまの私があるんですよ。所属プロとして台湾から日本にやってきた1カ月後に日本オープン(相模原ゴルフクラブ)で優勝しましたが、このへんのことは何度も話していますからここでは繰り返しません。今日は東京ゴルフ俱楽部の2番ホールと17番ホールの話をしようと思うの。2番はドローヒッターの私にフェードボールを打てるようにしてくれたという話。17番はいまも思い出すと嫌な気持ちになる日本オープンでの4パットの話。どう?
――どちらも面白そうです。では、嫌な17番からいきましょうか。
陳さん はい(笑)。あれは1964年の日本オープンですよ。会場が東京ゴルフ倶楽部でね、杉本英世さんが優勝した大会。所属プロとして私もいいゴルフをしていたんだ。杉本さんが最終ラウンドの15番までで4アンダーでトップ。私は前の組で1アンダーで回っていてね。ところが杉本さんが16番のパー4でダブルボギーを叩いたんだねえ。これで2アンダーになって私とは1打差だ。ところが……。
――ところが……?
陳さん 17番のパー3で4パットしたんだ。いい場所にワンオンさせたんだよ。上りのフックラインだ。距離はそんなに長くなかったはず。バーディが狙えるぐらいだったからね。それなのに4回もかかっちゃって。その原因はね、結局私の焦りからきたものなんだねえ。これはチャンスだって思ってさ、強気にビシッて打ったら外れて、1mもオーバーだよ。返しのパーパットは下りのスライスラインだ。ところがグリーンがベントなのを忘れて(笑)コーライのつもりで打ってしまってさ。ボールはカップの左を抜けてまた1mぐらい転がった。
そうなると、次は入れなくちゃいけないって慌てるものなんだね。ポンッて簡単に打ったらまた外れちゃった。頭の中まっ白よ。この4パットは語り草になったものなんですよ。
――杉本さんは17番も18番もボギーにしてイーブンパー。陳さんは1オーバーで1打差の2位でした。
陳さん 17番をパーで収めていれば私の優勝だよ。残念だったな。それに比べると2番は自分の苦労が報われたホールというかな、ドローかフックしか打てなかった私にフェードとかスライスを打てるようにしてくれたんだからねえ。このホールはティーショットの落とし所がバンカーに挟まれているの。右側にバンカーが縦に2つ、左側の先に1つあって、この左側のバンカーに必ずといっていいぐらいボールを打ち込むことが長らくあってさ、悩みの種だったんだ。入らないようにって、いくら右を向いても入るからね。それである日、思うことがあって、左のバンカーに向かって立って打ったらどうなるだろうとね。しかし、そのまま左を向いて打ったらボールは左へ飛ぶでしょ。そこでボールの位置をいつもより右に置いて(中に入れて)、ティーの高さを少し低くしてね、それで打ってみたら、なんとね、ボールが左に切れないで飛んで、左バンカーの右に落ちたんだ。へえ、だよ。ボールの位置をいつもより右に置いて、ティーアップを低くする。これ、見ただけじゃわからないんだ。プロもだよ。アマチュアの人は全然。面白いんだねえ。
陳清波
ちん・せいは。1931年生まれ。台湾出身。マスターズ6回連続出場など60年代に世界で日本で大活躍。「陳清波のモダンゴルフ」で多くのファンを生み出し、日本のゴルフ界をリードしてきた
月刊ゴルフダイジェスト2025年1月号より