【ゴルフせんとや生まれけむ】笘篠賢治<前編>「子供の頃、空き地に缶を埋めたミニゴルフコースで遊んでました」
ゴルフをこよなく愛する著名人に、ゴルフとの出合いや現在のゴルフライフについて語ってもらうリレー連載「ゴルフせんとや生まれけむ」。今回の語り手は、 元プロ野球選手の笘篠賢治氏。
初めてゴルフクラブを握ったのは小学2年生のときでした。親父がゴルフ好きだったので、練習場に一緒に行って、親父のクラブを借りてボールを打っていました。当時はまだ愛媛に住んでいて、小学3年生になるときに大阪の茨木に引っ越してきました。大阪に行っても親父は相変わらずゴルフ好きですから、練習について行きました。
3年生のときに親父が「7番アイアンで100ヤードのところまで飛んだらジュースを買うたる」と言ったんですよ。ボクが気合いを入れてボールを打ったら、100ヤードの看板のところまで飛んでいきました。それで「よっしゃ!」となって、ゴルフが楽しくなりました(笑)。
大阪では親父の会社の社宅に住んでいて、建物が4つあったんですね。それで社宅の敷地内に庭というか、雑草が生えている広い空き地がありました。その空き地に、社宅に住んでいた年上のお兄ちゃんたちと穴を掘って缶を埋め、ミニゴルフコースを造りました。クラブは親父の古い7番アイアンとパターを使って、ボールは練習用の穴の開いたプラスチックのボールを自分のお小遣いで買いました。ただ、そのボールを何度も打つと割れるので、はんだごてでくっつけて直していました。
子どもの頃にそういう経験をしていましたから、プロ野球の世界に入って初めてゴルフ場を回ったときも、120は叩かなかったですね。112くらいだったと思います。どこのゴルフ場を回ったかはまったく覚えていませんが……。
当時のヤクルトでゴルフが上手なのは、伊東昭光さんと角富士夫さんくらいで、それ以外はそんなに上手ではないのですが、みんなゴルフ好きでした。キャンプ中も休みの日はゴルフに行く選手が多かったですね。野村(克也)監督の就任1年目だけゴルフは禁止でしたが、2年目からはOKになりました。まだ若い駆け出しの頃は休みの日も練習があるのでゴルフには行けませんでしたが、何年か経った後はボクもゴルフに参加していました。キャンプ地は毎年ユマ(米国アリゾナ州)で、球場のすぐ隣にゴルフ場があるんですよ。池山(隆寛)さんがマメな人で、みんなの順位を書いて宿舎の部屋の壁に貼り出すんです。それを野村監督が不機嫌そうに横目で見ているのが面白かったですね。
そのとき上位にいたのはやっぱり伊東さんと角さんでしたね。あとは広澤(克実)さんも上のほうにいました。ボクもまあまあ上のほうでしたが、グロス93~94で上位に入れるくらいのレベルでした。
ボクはシーズンオフになるとヤクルト以外の人たちとゴルフに行く機会も多かったです。親父がゴルフ好きですから親父の会社の人たちと行くこともありましたし、兄貴(元プロ野球選手の笘篠誠治)はボクよりも6年前にプロ入りしてゴルフを始めていましたから、親父と兄貴と3人で回ることもありました。そうしたらおふくろも60歳になってからママさんバレーをやめてゴルフを始め、親子4人で一緒に回れるようになったんです。
笘篠賢治
とましの・けんじ。1966年生まれ、大阪府出身。88年ドラフト3位でヤクルトに入団。1年目から俊足を生かして32盗塁を記録し、新人王。2年目以降は内外野を守れるユーティリティプレーヤーとして存在感を発揮。98年広島に移籍。99年現役引退。引退後は野球解説者として活躍。
週刊ゴルフダイジェスト2023年11月7日号より