【GDライブラリー】「風、風、風のコースで学んだのは“4つの打ち分け”と“礼儀”でした」陳清波×涂阿玉 レジェンド対談 in台湾
“淡水”と呼ばれる台湾最古のゴルフ場、台湾ゴルフ倶楽部が今年(2018年)で100年を迎える。コースの始まりは、日本統治時代に台湾へ赴任したゴルフ好きの日本人たち。仲間うちで手造りしたリンクスは、吹き付ける風が名物となり、その風にもまれた台湾プロたちが世界へ羽ばたき、台湾のゴルフが発展していく礎となった。陳清波と涂阿玉、2人の名手とともに現地を訪れ、話に耳を傾けると、台湾ゴルフの原点が見えてきた。
取材・文/谷田宣良 写真/小林 司
※この記事は「チョイス」2018年春号の記事を再録したものです。
コース、プロ、技術……
台湾ゴルフのすべて、ここに始まる
戦前、日本オープンを制した林万福、そして戦後に制してダウンブローブームを巻き起こした陳清波。この2人が特別だっだのではなかったと思い知らされたのは、70年代に入って日本でトーナメントブームに火が付き、毎週のように試合が続くようになってきてからだろう。
60年代後半に生まれた、「アジアサーキット」の主役は英国ゴルフの伝統を誇る豪州勢と対照的な小さな島国の台湾勢だった。そのガイジン勢が最終戦の日本で戦った後、居残って勝ちまくる。見た目からしてガイジンの豪州勢とは違い、顔つきも体つきも日本人と変わらない台湾勢が、なぜこんなに、しかも揃いも揃って強い? そしてパンチショットを武器に7回の賞金女王に輝いた涂阿玉を筆頭に台湾勢が女子ツアーも席巻するようになる。なぜだ?
その答えが「淡水」である。小さな台湾のたった一つのコースで腕を磨いた「淡水育ち」たちが、技術はもちろん、ゴルフに取り組む姿勢までを師匠から弟子、先輩から後輩に伝えてきた。そのレベルの高さを証明した当然の結果だったのだ。
日本でも、かつては「川奈一門」、「我孫子流」と呼ばれたように名コースが名手を育ててきた歴史がある。だがもはや日本ではそれは死語と言っていいだろう。
けれども台湾のプロたちの技術と心を支え続けてきた「淡水流」は、今も生き続けている。戦前の日本統治時代に生まれ、戦後は台湾の人たちに大事に守られ育て上げられ、今年、100年の節目を迎えた「老淡水」と共に。
風、風、風のコースで学んだのは
「4つの打ち分け」と「礼儀」でした
陳清波と涂阿玉、“淡水”で腕を磨いた2人のレジェンドが、当時の思い出を振り返る。
* * *
涂 私、豊原のゴルフ場に15歳で入ってゴルフを覚えて、17歳の時に初めて沖縄の試合に出ていきなり3位になって評判になったんですね。それがきっかけで陳金獅先生の家から通って淡水で修業することになったんです。71年の11月25日からですが、すごく寒くって毎日雨ばっかりなのでビックリでした。
陳 豊原は台湾の中部であったかいし雨もめったに降らないところだから、最初はこたえたでしょ。
涂 昔、練習場も屋根がなくって冷たい北風がもろに吹きつけてくる中で練習。苦しかったですよー。
陳 でも、ゴルフが本当に上手くなったのは、ここに米てからだよね。
涂 はい、豊原時代は、よく飛んだけど、よく曲がった(笑) 。最初に教わったのは、高い・低い・フック・スライスの4通りの球筋が打てるようになりなさい、でした。
陳 そうそう、淡水はとにかく風が強いからボールを操る技術がないと、通用しない。私も陳金獅先生に勧められて、川奈に半年間修業に出てスクエアグリップ教わって帰ってきてから、猛練習して身につけたの。涂さんも、練習場の隅に立っていた木を狙って打ち続けて枯らしちゃったんだよね。
涂 それ、私だけじゃないですよ。みんな狙って打ってた(笑)。あの頃、20人くらい研修生がいて、女子は呉明月、黄玥珡、戴玉華さんと、あと2、3人プロにならずに辞めた人がいた。練習場は6打席だけだから先輩が来たら「どうぞ」でしょ。それとプロが来たら「先生、どうぞ」とボール置き。当時、許勝三さんというパンチショットの名手がいて、その人のボール置きをしながらどう打っているのか見てた。打席がいっぱいの時は端っこの左斜面からショートアイアンでパンチショットの練習してました。あれがよかったみたいですね。
陳 うん、あれだけのパンチショットを打てた女子プロは昔も今もこの涂阿玉だけ。そこはちゃんと褒めてあげるからね。
涂 キャハハ、大先輩に褒められて嬉しいです。あの頃は男子の研修生たちとニギらされたから上手くならないと大変だったの。でもパンチショット覚えて高・低・フック・スライスの4つの球筋、打ち分けられるようになったら平気で勝てるようになった。73年にトヨトミレディスに主催者推鷹で出してもらえることになった頃は60台で回ってましたよ。そのトヨトミレディスは清元登子さん優勝、私が2位とアマチュア2人が上位独占して話題になりましたよね。本人もびっくりでしたけど。
陳 淡水で覚えた涂さんのゴルフが、もうそれだけのレベルに達していたということだよね。
上手くなるほど
謙虚になりなさい
涂 私、陳金獅先生からは、技術だけじゃなく、もっと人間として大切なこと沢山教えていただいたと感謝しているんですよ。淡水に来た頃は田舎の子でしょ。きちんとした言葉遣いを知らない。お客さんや先輩に対する話し方が乱暴だったのね。先生、夕食の後のお茶が好きで、それを飲みながらあの時のしゃべり方は失礼だから、こういう風に話しなさいとていねいに教えてくれて、礼儀作法について色々教えてくれました。「三角六針」と言ってね、きつい言葉や悪い言葉はどこでどの人に刺さって傷つけたり怒らせたりするかわからないから注意しなさい。悪いことがあっても、あなたの口から出してはいけない。同じことをしなければいいんだよ、とかね。
陳 これ、台湾の一般家庭にも社会にも昔からあった言葉なのね。でも家や学校で教わらずに育った世代が増えてきたから社会に出たときに教えてあげなくちゃいけない。それを陳金獅先生はしてくれたんですよ。
涂 日本に行くようになったら、先生、空港まで送ってくれて、出発前に必ず手紙を渡してくれた。「飛行機に乗ったら読みなさい。読んだら捨てずに持って帰りなさい」って。内容は毎年、少し変わるけれど、ずっと言われたことは謙虚になりなさい、ね。いくら技術が上手くても礼儀を欠くとみんなから嫌われる。人間の中身がないと、この世界で生きていけないよ、と。それと自分のことだけ考えるのではなく、妹たち、後輩ですね、と仲良くして面倒を見てあげなさい。
陳 私たちが教わったことも同じ。台湾のプロはみんな礼儀正しい、と言われるようにしなさい、ということね。心得違いしている者が1人でもいたら台湾のプロ全体が誤解されてしまうから、私たちも後輩たちに目を配ったよ。
涂 陳金獅先生、92年に亡くなったんです。20年間教えてもらったけれど、怒られたことは一度もなかった。
陳 そうそう。気に入らないことがあると黙っちゃうの。それが逆に怖かったなあ(笑)。
涂 みんな怖がってたけれど、私は「先生、どうしたの?」って平気で話しかけてたよ(笑)。
陳 涂さんだからできたの!(笑)
涂 陳金獅先生や諸先輩たちから教えてもらったことを今の若い人たちに伝えていくのが、私の義務だと思っているんですけど、今の若い人は聞きに来ない。厳しく言うと逃げちゃうんですよー。どう思います?
陳 うーん、去る者は追わず、と考えるしかないかなあ。
世界中のコースで試合したけれど
風の強い日のここがいちばん難しい
淡水の6番ホールのすぐ横に家があったという陳さん。文字通りの「ホームコース」を自らご案内!
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淡水を回るのは5年ぶりかなあ。改めて眺めると私が修業していた頃に比べて、木が立派に育ったよね。グリーンも昔は2グリーンだったけど、1グリーンに改造したホールが増えたし、ティも後ろに下げて距離を伸ばしたよね。
グリーンは昔より高くなって、手前が受け斜面になったから乗せづらくなったし、寄せづらくなった。昔は転がし上げができたけれど、手前の斜面にキャリーすると止まっちゃうんだ。でもバンカーの配置や形は赤星四郎先生の設計が生かされている。昔の名コースの特徴はグリーン奥の見えないところにバンカーがあることね。それは変わっていない。
今日は珍しく風がないけれど、風が吹いてこその淡水なんだなあ。フェアウェイを狙って真っすぐ打ったらどこかにもっていかれちゃう。風向きと強さを計算して曲げて打ってフェアウェイに止めるのが淡水流ゴルフなの。
風で距離も平気で50~60ヤードくらい変わるからね。特に1番と9番は風が吹き抜けるから季節によってフェアウェイウッドからショートアイアンくらい違ってくる。この2ホールの練習が一番、風の勉強になったよね。
いきなり風の淡水に引っ張り出したら、プロでも80叩くでしょう。世界中のコースでプレーしたけれど真冬の北風が吹く淡水が一番難しいんじゃないかな。
私たち淡水育ちのプロたちは、そういう厳しい状況で、ボールを操る技術を磨いてきたのね。だから日本で試合に出てた時、明日は雨だ、風だと予報で言うと「チャンスだ!」とみんな喜んで逆に張り切ったよ(笑) 。