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【ゴルフせんとや生まれけむ】陸奥一博<前編>「場所が終わったあと、1.5ラウンドを1週間ぶっ続けで回っていました」

ゴルフをこよなく愛する著名人に、ゴルフとの出合いや現在のゴルフライフについて語ってもらうリレー連載「ゴルフせんとや生まれけむ」。今回の語り手は、元大関霧島の陸奥一博氏。

初めてクラブを握ったのは幕下の頃、20歳のときですが、子供の頃、稲刈りの終わった田んぼで、山から切ってきた木でクラブを手作りしてゴルフの真似事をしていたので、違和感は最初からなかったです(笑)。 

小学生の頃は、母が地元の霧島GCでキャディをしていて、いつもお菓子やジュースをお土産に持ち帰ってくるので、「うちのお袋はえらい気前がいいな」と思っていたんですが、チップ代わりにお客さんからもらっていたんだと、大人になってから知りました(笑)。

本格的にやるようになったのは幕内に上がってから。ゴルフのどこがいいかといったら、そりゃストレス解消になることですよ。ラウンド中は相撲のことを忘れて目の前のボールにだけ集中して熱中できる。そんな遊びはほかにあまりないでしょう。ただ、最初の頃は自分に合うゴルフシューズがなくて。足のサイズは30センチなんだけど、甲高で幅広だから市販の30センチじゃ合わない。両国にオーダーメイドの靴屋さんがあって5万円くらいで作ってもらったけど、靴底も革だから、雨に濡れると底がぼろぼろになって、すぐ使えなくなる。曙関は米軍基地の売店で買っていたらしいけど、靴には苦労しましたよ(笑)。 

私が入幕したのは、日本がバブル景気に突き進んでいく時代。相撲界でもゴルフをやる人がどんどん増えて、後援会の懇親コンペにも呼ばれるようになりました。最初に後援会の懇親コンペをやったのは、元横綱北の富士の九重親方だったと思うけど、参加者は50組200人くらい。毎回、ゴルフ場を貸し切り、朝7時からスタートして、パー3ホールではホールインワンが出やすいようにバケツくらい大きな穴を掘ってもらってやっていました。でも、それだけ大きいカップを切っていても、ホールインワンもバーディもなかなか出なかったなあ(笑)。 

そういうコンペも含めて現役時代は年間20回くらいラウンドしていましたね。その後、90年の大阪場所後に大関に昇進したんですけど、そのときは場所が終わったあと1週間ぶっ続けでコースに出ました。それも毎日ワンハーフずつ。大相撲ファンで知られる上岡龍太郎さんなんかに誘われてね。この頃は体力もあったから、同僚の力士と、朝4時半スタートで1ラウンドして、それから別のコースへ行き、さらにナイターでハーフ回るなんて無茶なこともしていましたよ(笑)。 

海外のコースでも何度かやりました。有名なペブルビーチも回ったし、ブラジルでもラウンドしました。ハワイではコオリナGCで力士会のコンペを開いてハーフ1アンダーで優勝したこともあります。力士はあまり歩かないから18ホールは無理だというのでハーフコンペだったんですよ(笑)。 

ゴルフ仲間には上岡さんのほか、錦野旦さんやモノマネのはたけんじさんなどがいて、元巨人の川上哲治監督やデーブ大久保とも回りました。横峯さくらの父親の良郎さんとは同じ年だし、細川和彦とはいまも一緒にラウンドする仲で、ゴルフのおかげでいろんな世界の人と知り合いになれましたね。

>>後編につづく


陸奥 一博

1959年生まれ。元大関霧島。75年3月場所で初土俵。84年7月場所入幕。三段目から始めた筋トレで肉体改造に取り組み、和製ヘラクレスと言われた。最高位は東大関。得意技は左四つ・吊り・出し投げ。96年に引退して陸奥親方に。鹿児島県牧園町出身

週刊ゴルフダイジェスト2025年9月2日号より