【イ・ボミのスマイル日和】Vol.1 母から忍耐力とガッツを受け継いだのかも
2年連続賞金女王など輝かしい実績を残し、2023年に惜しまれつつも日本ツアーを引退したイ・ボミ。これまであまり語られてこなかった生い立ちや現役時代の秘話など、あらいざらい語り尽くす!
TEXT/Kim Myung Wook PHOTO/Takanori Miki
半ばやらされて始めたゴルフ
でも全然イヤだと思わなかった
アンニョンハセヨ! イ・ボミです。昨年日本ツアーを引退してから1年が過ぎましたが、本当に時が過ぎるのが早い! 今は日本と韓国を行き来しながらゴルフ関連の仕事をしていますが、日本のファンのみなさんに誌面を通してお会いできることにも感謝しています。この連載では、これまであまり表に出すことのなかった話題や日本を離れた今だからこそ話せるエピソードなど、私のゴルフ人生を振り返っていこうと思います。
初回は家族の話からさせてもらいますね。私の家族はアボジ(父のイ・ソクジュ氏、故人)とオモニ(母のイ・ファジャ氏)、4姉妹の6人。私は韓国の京畿道(キョンギド)水原(スウォン)市で次女として生まれました。姉の「ボラ」オンニ(お姉さん)が7つ上で、三女の「ボベ」が私の1つ下、末っ子の「ジェニ」は6つ離れています。
私が幼少の頃、父はビリヤード場を経営していたそうです。なぜかというとビリヤードがめちゃくちゃ好きで、母が「お店でもしなさい」と言ったからだとか(笑)。あるビルの何階かにビリヤード場をオープンしたのですが、その最上階にはホテルやバーのような施設があったそうです。ある日、父の所に行こうと母とエレベーターを待っているときに、私だけ先に乗ってしまい扉が閉まって母は大慌て。私は最上階にいる人に「父がこのビルでビリヤード場をしているので連れて行ってほしい」と伝え、連れて行ってもらいました。
父の仕事の関係で水原からさらに東の江原道(カンウォンド)麟蹄(インジェ)郡に私が5歳の時に引っ越しました。両親は一家を養うためにいろいろな仕事をしていました。当時、街の中心部に両親はお店を構えていたのですが、父は電気工事の技師として、母はカーテンをデザイン・製作して販売をしたり、その後はプルコギのお店も経営していました。末っ子のジェニはそこで生まれたのですが、母が赤ちゃんを連れて帰ってきたのをよく覚えています。家庭が経済的に裕福だったのかはわかりませんが、母が作るカーテンが地元ですごく人気で、商売はうまくいっていたと聞いています。
ただ、1997年に韓国で起こった“IMF経済危機”で、多くの人がお金を使わなくなり商売も難しくなったようです。国民の生活が困窮するなか、韓国女子ゴルフ界のレジェンドでもあるパク・セリさんが、翌年の1998年の全米女子オープンで当時最年少(20歳9カ月)優勝して、全国民が勇気をもらいました。
当時、テレビにパク・セリさんが出ていたことは知っていましたが、私はすぐにゴルフをしたわけではなく、ピアノも習っていましたし、スポーツの習い事はテコンドーが最初でした。1カ月ほど習っていたのですが、母がそれを嫌がってやめさせました(笑)。それで友達がゴルフをしているというので、父が「一度、一緒にやってみなさい」と始めたのがきっかけです。
父はスポーツがすごく好きで、地域のサッカーチームでプレーしていて、家のテレビはドラマよりもスポーツ番組が流れているのが日常でした。私も走るのが大好きで、運動会がすごく楽しみでしたよ。どちらかといえば、私は母の忍耐力やガッツを受け継ぎ、絵が上手な姉と1つ下の美容師の妹は美的センスを譲り受けたのかもしれません。
とはいえ、ゴルフを始めたときは友達がコーチに教わっていたので、すぐに私も一緒に習い始めたんです。その時、全く嫌だと思わなかったのが今でも不思議。ゴルフをするからと、母がウェアなどをいろいろと買ってくれたのが嬉しかったのかもしれません。
ゴルフは半ばやらされて始めたのですが、それが私を支えてくれることになるとは、その時は誰も思っていなかったと思いますね。
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月刊ゴルフダイジェスト2025年1月号より