【ターニングポイント】湯原信光「僕のゴルフ人生は”実験”の連続だった」
自分の体で試すから発見がある、経験が残る。中部銀次郎に愛された才能はプロとして華々しく開花した。しかし、病気や怪我など幾多の苦難でその花も枯れかけてしまう。見事再起を遂げたそのあとに訪れた言葉がくれた「ターニングポイント」。
TEXT/Yuzuru Hirayama PHOTO/Takanori Miki THANKS/東京国際大学
ほとんど神童といっていい。5歳の頃に遊びで始めた球打ちは、空振りはおろかスライスの記憶さえなく、小学4年生でハーフ30台を出すほどに。高校2年生から日本ジュニアを連覇すると、日本大学を卒業するまでに27ものアマタイトルを獲得した。天才を愛する天才がいた。「プロより強いアマ」と称された中部銀次郎だ。伝説のゴルファーとの出会いは、彼に何をもたらしたのか。
「左へのミスにホーガンも悩んでいた
それが励みになってグリップを変えた」
父の光保が工学博士でした。濾過機の開発や温泉やプールなどの施設に技術協力していたんです。その父がゴルフを始め、その約2年後に僕が5歳の頃、練習場へついていくようになりました。菓子店に寄ってバブルガムを買ってもらう目的で(笑)。その店に、タータンチェックのバッグに入った子ども用のゴルフセットが売られていて、それを買ってもらって本物の球を打ったらすぐに壊れてね。
小学1年生の頃には本物のクラブをオーダーで作ってもらい、ゴルフを始めたんです。陳清波さんの『近代ゴルフ』やベン・ホーガンの『モダンゴルフ』を父から渡されて、絵や写真と、ひらがなを目で追って学びました。コースでスタートする前、後ろの組の大人たちからの声が聞こえるんです。「子どもの後なんて嫌だよな」「今日は時間がかかりそうだな」と。そんな声が、僕が打つとぴたっと消えちゃう。それが面白くてね(笑)。
中学生になると、試合に出場できるのが楽しかったです。中学3年生のときの日本ジュニア、最終ホールまでリードしていて、フックグリップで、雨が降っていたせいもあって滑らないように強めに握ってしまって、左へ引っかけて林へ。1打差で高校生に負けたことが悔しくてね。そういえば、左のミスにホーガンも悩んでいたと書いてあったなと。それが励みになって、大人のゴルフをするにあたって、力が邪魔をしないスクエアグリップに変えたんです。
「中部さんから自分自身の基準を持つ
ことの大切さを教わったんだ」
中部銀次郎さんとの出会いは、日本大学へ進学してナショナルチームのお手伝いをしたときから。夕方に中部さんの会社前に集合し、翌朝まで飲みながらゴルフ談義をしたことが何度もありました。
スウィングを見ていただいたことも。僕が打ち始めると、「それは気持ち悪い」としか言わず、自分で考えて打ち直すと、「それは気持ちいい」とそれだけ(笑)。ゴルフというのは教わるものではなく、自分でどうするか。中部さんから、自分自身の基準を持つことの大切さを教わったんだと思います。
ジュニアのゴルフから大人のゴルフへの転換期にインターロッキングのフックグリップからオーバーラッピングのスクエアなグリップへ変更した
天才にも不測の事態は訪れる。1981年の関東オープンでのプロ初勝利後は順調だった。類い稀なゴルフセンスとスウィングの流麗さで、1986年には世界選手権で優勝し、同年から日米対抗戦の代表に2年連続で選出された。しかし、1988年以後は相次ぐ怪我で戦線を離脱。1999年の椎間板ヘルニアは、選手生命どころか歩行さえ困難な重症だった。その入院中、すぐ近くの病院に、癌で闘病中の中部銀次郎がいた。痛む体で恩人の病室を彼は訪れた。
プロになると言ったら、中部さんからは毎晩呼び出されて猛反対されました。ゴルフで稼がなくてもいいだろと。いや、ゴルフを突き詰めるためにはプロにならなければという僕の頑固さに、最後は折れてくれて。「アマチュアとしての心を忘れるな」と。そのときは言葉の意味はわかりませんでした。
プロになって何勝かしましたが、なんでこんなに病気や怪我をするんだよ、もっともっとやれるはずなのにと思っていました。一番つらかったのは、椎間板ヘルニアです。オフにラウンドしていて、1番ホールのティーショットで、腰から「バチン!」と音が聞こえたんです。激痛でその一打で帰宅しました。そこからは眠れないほどで、仰向けになれないから1カ月もMRI検査すらできない重傷でした。
ベッドから動けないからガリガリに痩せてしまい、太腿も両手で回せるほど細くなりました。痛みが収まってきても筋力がないから歩けません。待合室のベンチからベンチへ、わずか5mを伝い歩きするようなリハビリからスタートです。ようやく歩けるようになって、僕が入院している日大病院から、川向こうの順天堂大病院へ、やはり入院されていた中部さんのところへお見舞いに行きました。すると、「おまえは俺のところへ来る暇なんかないだろ、早く治せ!」と。それからしばらくして、中部さんは亡くなられました。
“3羽ガラス“と称されプロの世界でも台風の目に
アマチュア時代は27回の優勝を達成し、プロになってからは倉本昌弘、羽川豊とともに”3羽ガラス”と称され、席巻。スウィングの美しさには定評があった
苦しみや痛みがあるから、とてつもなく大きな歓びが身に沁みる。わずか5mの歩行から始めた過酷なリハビリをやり通し、湯原はコースへ戻ってきた。また、のちに名器と評されるブリヂストン『NBアイアン』の開発にも着手。取り戻しつつある肉体と、まだ刻印さえされていない試作品のアイアンで挑んだ2002年のKBCオーガスタ。10年ぶりのツアー7勝目に涙を止められなかった。それは、約8カ月半前の中部銀次郎の死や、わずか3日前に亡くなったばかりの日大ゴルフ部竹田昭夫監督に捧げる勝利でもあった。
試合に復帰すると、優勝争いができるようになるまでの期間が短すぎたから、「おまえ、入院していたなんて嘘だろ」とよくからかわれました。だけど嘘どころか、椎間板ヘルニアというのは、残念ながら完治しないんです。それを手術せずにさまざまな手法で緩和し、リハビリもトレーナーについて必死にやりました。そのときは痛みやつらさとの闘いでしたが、今になって思うと、それらが一つも無駄ではなかったなと。僕のゴルフ人生は、「実験」の連続だったのかな。自分の体で試すから、発見がある、経験が残る。
またクラブ作りも、幼い頃から工房に出入りしてクラブをいじらせてもらっていました。僕の憧れは『鉄腕アトム』のアトムではなく天馬博士(笑)。プロになってからも自分でクラブ調整するのが好きでね。だからクラブをまったく新たに作るという話があったとき、当時はキャビティバックの全盛期でしたが、これまでのクラブ作りの固定概念にとらわれないものを作ろうと。それでクラブ作りをしたことがない、特殊旋盤ができる職人さんと組んで製作したんです。
スコアラインの角度にまで細かくこだわって、試行錯誤して完成した試作品を打った瞬間にいきなり、「これを試合に持って行くよ」と言ったら驚かれてね。だってまだ刻印もされていないプロトタイプなんですから。その試合が、10年ぶりに優勝できた2002年のKBCオーガスタでした。
その試合で実感したのは、人間というのは、考え方一つで結果を変えられるということ。3日前に亡くなったばかりの日大ゴルフ部竹田昭夫監督の恩に報いたいと、僕だけじゃなく、6名の日大出身選手がトップテン入りした。こんなことあり得ません。やはり肉体というのは、自分の精神でどうコントロールするかにかかっている。
この試合では、試作品でのアイアンショットが本当に冴えていました。初日(3位タイ)に同組だった藤木三郎さんが、短いバーディパットを外しまくっていた僕に、「ノブ、大丈夫だ。おまえのショットだったら絶対に優勝できる」と、ホールアウト後に太鼓判を押してくれたほどでしたから。
長い歳月を経て、自らの使命を思い出すこともある。2010年には皇潤クラシックでシニア初優勝するなど活躍は続いた。怪我をしてもストックを突きつつコースを歩きながらプロとしての執念を燃やした。それだけではない。「アマチュアとしての心を忘れるな」。亡き中部銀次郎の言葉通り、現役プロとして初の大学ゴルフ部監督に就任し、アマ育成にも注力する。2013年に東京国際大学は関東学生連盟Cブロックの弱小ゴルフ部に過ぎなかったが、わずか1年足らずでAブロックへ昇格させた。さらには特命教授として一般学生に講義したり、「ユーチューバー」にまで挑戦したりと、意欲は止まらない。
「ゼロから選手を育てるのは難しい
だけどここで学んだことが社会で
生かされることが何よりうれしい」
「ある人に会ってほしい」。そう言ってきた人の顔を立てて、会うこととなったのが東京国際大学の倉田信靖総長でした。もちろんまだ現役で、日大出身ですし、難しいでしょうが話だけ聞いてほしいと、ゴルフ部の指導者のオファーだったんです。お受けするつもりはなかったんですが、そこになぜか旧知の古葉竹識(元広島東洋カープ監督)さんもいらしたんです。聞けば古葉さんは現在、同大学の名誉監督を務められているというんです。野球部を創部5年で日本一にしたと。その古葉さんが「この大学は凄い施設ですよ」と。つまり、お二人で僕を口説きに来たんですね(笑)。
結局、淵脇常弘コーチと、元WBC世界フライ級チャンピオンの内藤大助さんのトレーナーだった野木丈司トレーナーに手伝ってもらい、監督として生徒たちを指導することとなりました。私の脳裏には中部さんの「アマチュアとしての心を忘れるな」という言葉がいつもありました。言われたときにはわかりませんでしたが、今になって考えると、ありがたい言葉だったなと。
ゴルフ部の指導と同時に、特命教授として毎週月曜日に、一般学生を相手に講義も始めました。また、母校日大で大学院へ通って博士を目指すことにしたり、ユーチューブで一般のアマチュアにゴルフの講座を開設したり。それらはすべて、僕自身が、正しいゴルフを知り、そして後世に残したいから。
残念ながらうちのゴルフ部はまだ、高校時代から有名なアマチュアは入部してきません。それどころか、ゴルフ初心者さえいるんです。ゼロから選手を育てるのは難しい。だけどここで学んだことが社会で生かされることが何よりうれしい。だって、プロになれるのはほんの一握りでしょ。だとしたら、ゴルフそのものだけではなく、ゴルフを通じて、何を学べるかに、大きな意味があるはずですから。
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巨大な建物内にはオーガスタの12番グリーンを模して造成された練習グリーンが横たわっていた。グリーン脇には22もの打席がずらりと完備されている。
「最初に見たとき、僕もびっくりしました。学生がこんな素晴らしい施設で練習できるなんて」
東京国際大学坂戸キャンパスの室内ゴルフ練習場。そこで学生に指導している彼は、今回の撮影のために球を打ってみせてくれた。
「もう、理想のスウィングから程遠いのは自覚しています。若い頃は我が道を行くだけでしたけど、この歳になると、その道が狭まってくるのがわかってしまうんです」
けれども、笑顔のままで、彼はこうも言う。
「だからといって、狭まった道を歩くのをやめてしまうわけではない。今晩も、これから次の試合会場の千葉へ向かうんですよ」
指導者として学生に教え、選手として自らも挑む。彼の狭き道、しかし長き道は、高みへと続く。
月刊ゴルフダイジェスト2023年1月号より