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【名手の名言】戸田藤一郎「半端なゴルファーほど自分のスウィングについて語りたがる」

レジェンドと呼ばれるゴルフの名手たちは、その言葉にも重みがある。ゴルフに限らず、仕事や人生におけるヒントが詰まった「名手の名言」。今回は「トイチ」と呼ばれ長く第一線で活躍した“鬼才”戸田藤一郎の言葉を2つご紹介!

地を這うような3番アイアンのパンチショットは見るものを魅了した(写真は1967年中日クラウンズ)


半端なゴルファーほど
自分のスウィングについて語りたがる

戸田藤一郎


この言葉を聞くと、ゴルファーなら誰でも1人や2人、すぐに顔が思い浮かぶのではないだろうか。ゴルフ場はもちろん、練習場や会社、果ては居酒屋にまで跋扈している。

自分のラウンドやスウィングについてとうとうと語り、ほとんどが自慢話。それでいて、実際にその人のスウィングやスコアを見ると、疑問符がつくことが多いのである。

戸田藤一郎は、ショットの確かさでは日本の歴代プロゴルファーのなかでも1、2を争うほど天才的な資質を持っていた。

右手主要論者で、とくにパンチショットの切れ味はピカイチであった。その戸田は言葉を発するときには毒舌で舌鋒鋭かったが、こと自分のこととなると、多くを語らなかった。

本当は猛練習したはずなのに、若いときはなるべく人目のつかないところで練習をしたし、「鬼才」という名声を得てからは、人々が寝静まった深夜にクラブを振っていた。

「九州の若鷹」と呼ばれ、修行時代、高松で(戸田は廣野から追放され、高松にいたことがある)戸田を仰ぎ見ていた鈴木則夫が、後年、パッティングの教えを乞うたときに言われたことがある。

「ラインはグリーンに上がった第一印象で見るもんや。(グリーンに上がってからは)コマネズミみたいにウロウロすな! 自信がないやつほど動きまわったり、自分のことをべらべらしゃべくったりするもんや!」

耳が痛いという人もたくさんいそうだが、そういう人に限って、自分のことを言われているとは思わないもの。まわりの人は「あ、あいつ!」と、すぐ分かるのだが……。


左手はハンドル、右手がアクセル

戸田藤一郎


スウィングにおいて、両手の役割は昔からさまざまに言われてきた。鬼才と呼ばれた「トイチ」こと戸田藤一郎は右手至上主義だった。

「器用で力のある右手を使わんで、なんで飛ぶもんかいな! 左手は添えとくだけでいいんじゃ」が口ぐせでもあった。

165センチと小柄だったが、右手をつかったそのスウィングで、パーシモン時代300ヤードを飛ばしたこともある。全盛時代のジャンボ尾崎が不調になり、戸田に教えを乞うたこともあったほど。

戸田のもうひとつの武器はパンチショット。向かい風のなか3番アイアンで、10メートルも上がらない低い球で200ヤードも飛ばし、「永遠に落ちない矢」とも評された。当時のスウィング写真を見ると、インパクトの直前ギリギリまで「タメ」が保たれているのが分かる。

そして戸田のすごいところは、選手寿命の長かったことである。19歳で関西オープンに優勝し、その38年後、なんと57歳で同大会を勝っているのだ。

人生の足跡もまた異色だ。女に溺れ、大酒をくらい、黒シャツ、黒ズボン、黒サングラスで試合に臨んだ。練習は深夜。練習するのを人に見られたくなかったのだ。

名門廣野ゴルフ倶楽部にいたとき、メンバーのクラブを売り払って追放されたこともある無頼派。最後のときを迎えたとき、戸田は京都の蕎麦屋の親父であった。

■戸田藤一郎(1914~1984)

10歳から甲南GCのキャディとして働きながら、見よう見まねでゴルフを覚える。廣野GCが創立されるとそこへ移る。18歳でプロの資格を得ると19歳で初優勝。35年渡米、全米オープンに出場。W・ヘーゲンの回顧録に、日本からきた6人のなかで素質抜群、外国勢のなかでも最極上と記されている。39年日本オープン、日本プロ、関西オープン、関西プロを獲り、同年グランドスラムを達成。圧巻だったのは63年の日本オープン。25年ぶりの2勝目だった。71年、57歳で関西オープン7回目の優勝を遂げた

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