Myゴルフダイジェスト

最強の王者・ジャンボ尾崎の軌跡<前編>「ジャンボの強さは自らが作り上げたもの」

KEYWORD 尾崎将司

通算113勝を挙げたジャンボ。全ての記録が桁外れといっても決して過言ではない。その記録は偶然達成されたものではなく、絶えず頂点を目指し、努力した結果だった。そのため達成しなければならない項目を明確にして、その方法を考え実践し、一歩ずつ階段を上り続けたのだ。不世出といえるアスリート“ジャンボの足跡を追ってみた。

文/吉川丈雄 写真/GD写真部、 Joe Yoshikawa

>>後編はこちら

  • 通算113勝を挙げたジャンボ。全ての記録が桁外れといっても決して過言ではない。その記録は偶然達成されたものではなく、絶えず頂点を目指し、努力した結果だった。そのため達成しなければならない項目を明確にして、その方法を考え実践し、一歩ずつ階段を上り続けたのだ。不世出といえるアスリート“ジャンボ”の足跡を追ってみた。 文/吉川丈雄 写真/GD写真部、 Joe Yoshikawa ……

ジャンボの強さは
自らが作り上げたもの

徳島県立海南高校野球部は、1964年、春の選抜高校野球で甲子園に出場することができた。結果は初出場で初優勝という快挙。その時のエース投手が尾崎正司(本名)だった。翌65年、尾崎は西鉄ライオンズに入団。春の甲子園優勝という輝かしい経歴だったが、プロ入り後に活躍したというニュースは一度も流れることはなかった。 

2軍時代に覚えたゴルフの面白さに魅了され、67年に西鉄ライオンズを退団。切れ味が鋭く強気のプレーを身上とし「玄海の荒法師」と称された玄海GCの藤井義将に弟子入りした。 

その後、尾崎は千葉県にある習志野CCへと移り、ここでは林由郎プロの指導を受けた。林は身長160センチ、58キロと小柄だったが、アプローチやバンカーショットは“名人芸”と称されるほど小技の名手。その林が「最初から小技が上手い、これはモノになるぞ」と尾崎の才能を早くも見抜いた。 

多くの人が尾崎の「飛距離」に感嘆したが、米ツアーに参戦した経験があり和製ビッグスリーと呼ばれた杉本英世プロは「どうしても飛距離に関心が向くが、尾崎の特徴はショートゲームで、特に9番アイアン以下が上手い、だから勝てる」と1976年男鹿GC(秋田県)で行われた関東プロの時に教えてくれた。 

70年プロテストに合格。選手登録名を尾崎正司から将司に変更。翌71年には公式戦の日本プロ優勝を含め5勝という強さを発揮した。当時のスポーツ新聞の1面掲載はプロ野球が大半だったが、尾崎が活躍すると1面を飾るようになった。尾崎と同じ団塊世代が社会人になり、ニュースなどで活躍を知るとゴルフへの関心が高まり、時代はゴルフ大衆化へと突き進んでいった。 

69年戸塚CCで行われたプロテストにて。後年の活躍を予測させるアクションだ

当時のプロはシーズンが終了すると文字通りオフの生活となるが「プロゴルファーといえどもアスリートだ」という意識が尾崎にはあり、オフには体づくりを実践した。また、体に良い食べ物、サプリ、有酸素運動などにも高い関心を払っていた。

恵まれた体力だけでは113勝は実現できない。日々の努力と探求心、高いプロ意識によって自らビクトリーロードを築き、歩んでいったのだ。多くのスポーツ界ではオフシーズンになるとトレーニングをする。だが、当時のゴルフ界ではトレーニングと呼ばれるほどのことを実践していたプロゴルファーは皆無だった。野球界から転じた尾崎にとって、オフにトレーニングをしないことのほうが不思議だったに違いない。「飛ばすには体力が必要だ。その体力を作り上げるのがオフのトレーニング」と語っていた。

初期は、軽いランニングとストレッチ体操を主にしていた。そこに左腕を強化するため短いシャフトに重いヘッドを装着したクラブの考案などをはじめ多くのメニューが加わっていった。参加するプロは増え続け、やがて「ジャンボ軍団」と呼ばれるようになり、ツアーで好成績を残す選手も出現してトレーニングの有効性を証明した。

ジャンボは「トレーニングは皆ですれば明るく楽しくでき、ライバル意識も生まれる」と明言した。

壁に張られた紙には①勝機を作る(Tショット)、②勝機をものにする(2ndショット、アプローチ、パッティング)、③接戦、乱戦に強い、④逆境に強い/冷静(理性)、⑤終盤に本領を発揮、⑥勝負強さ、⑦プラスアルファの力=運、と書いてあった。ジャンボの強さそのものだといえよう

多くのトレーニング道具はジャンボが考案し配色も考慮して自ら製作した

スランプを乗り越え
前人未到の領域に

毎シーズン勝利を重ねていったが、決して順風満帆ではなかった。なかでも1981年は未勝利、賞金獲得額は972万2092円でランキング28位、シード権ギリギリだった。「ジャンボがスランプ」という記事が目立つようになり、73〜80年の間、賞金王3回、2位2回、3位2回と、圧倒的強さを発揮していたことを考えれば確かに“スランプ”と言えただろう。 

その年の全日空オープンではショットはいいものの、バンカーにつかまったり、ピンに寄らなかったりして一向にスコアに結び付かなかった。「不調なオレを取材に来たのか?」と言われてしまったが、肩を落としフェアウェイを歩く後ろ姿は、いつもよりずっと小さく見えた。

81年の全日空オープンで「不調のオレを取材に来たのか」と言われた(実はその通りだった)。クラブを担ぎフェアウェイを歩く姿にはいつものような力強さが感じられなかった

普通のプロならこのままフェードアウトしてしまうだろうが、ジャンボはそんなプロたちとは違う。才能に甘えることなく、ひたすら理想を抱き、頂点をにらみながら上り続けていく執念があり「人のできないことをして自分をより高める」と、自らを喚起させる努力を怠らなかった。

その結果、83年賞金ランキング6位、そして1985〜2000年までの16年で賞金王9回、2位3回。なかでも94年は日本オープンを含む7勝、96年では日本プロ、日本シリーズを制して8勝という驚異的といえる強さを発揮した。 

ツアー参戦は71年なので四半世紀以上にわたり日本のゴルフ界をけん引し続けたことになる。プロのスポーツ選手がこれほど長期間にわたり活躍を続けるのはまれで、いかにジャンボが突出したプロゴルファーだったかが分かるだろう。

日本オープン5勝、日本プロ6勝、日本シリーズ7勝と圧倒的強さを発揮した。なかでも94年は獲得賞金額2億1546万8000円。生涯獲得賞金額は26億円を超えた

>>後編はこちら

  • 通算113勝を挙げたジャンボ。全ての記録が桁外れといっても決して過言ではない。その記録は偶然達成されたものではなく、絶えず頂点を目指し、努力した結果だった。そのため達成しなければならない項目を明確にして、その方法を考え実践し、一歩ずつ階段を上り続けたのだ。不世出といえるアスリート“ジャンボ”の足跡を追ってみた。 文/吉川丈雄 写真/GD写真部、 Joe Yoshikawa ……

週刊ゴルフダイジェスト2026年1月27日号より