【名手の名言】セベ・バレステロス「3番アイアン1本が僕の遊び相手だった」
レジェンドと呼ばれるゴルフの名手たちは、その言葉にも重みがある。ゴルフに限らず、仕事や人生におけるヒントが詰まった「名手の名言」。今回はスペイン出身の伝説的プロ、セベ・バレステロスにまつわる言葉をご紹介!
3番アイアン1本が
僕の遊び相手だった
セベ・バレステロス
セベの世界へのデビューは鮮烈だった。17歳でプロデビューして、ヨーロッパツアーで活躍し、76年にはヨーロッパツアーで賞金王。
とはいってもその頃の欧州ツアーは米ツアーに比べて“ドサまわり”くらいの感覚。77年、日本へも来て日本オープン2連覇も果たしているが、所詮、世界から見れば端っこの話。
そして1979年、ロイヤルリザムアンドセントアンズで行なわれた全英オープン。最終日16番、ティーショットを大きく右に曲げて、なんと駐車場の中。これには誰もがたまげてしまった。それでも優勝してしまうのだ。
またその翌年、マスターズでは最終日17番のティショットを、隣の7番グリーンにオン。そこまで曲げることを予想だにしなかった大会関係者は一様に目ん玉むいて驚いた。しかもそこから平然とバーディをとり、史上最年少で優勝もしてしまうのだ。
“飛ばすが曲がる”パワーヒッターの欠点を補ってあまりあったのが、セベの小技である。変幻自在なアプローチ、バンカーショット、それにトラブルショットの巧みなこと。まるでマジックを見るようであった。
そんな小技の秘訣を聞かれた時、いつも口にしたのが表題の言葉である。
セベはスペインのピレネー山脈の麓の小さな村で羊飼いの家に生まれ、子供の頃からキャデイをしながら、兄からもらった3番アイアン1本を手にして、ラウンドというより遊んでいたという。3番アイアンでのバンカーショットなど見事なものだった。
つまり1本のクラブを手足の延長というぐらいマスターしたからこそ、飛ばし屋の曲がる宿命を克服して、メジャーを制することができたのである。
ダッファーには14本もクラブは必要ないという教訓も、この言葉から見えてくるではないか。
セベはほとんど完璧なゴルファー
大トラブルに見えても彼にとっては
大した問題じゃない
ベン・クレンショー
今回の言葉はベン・クレンショーだが、主役はセベ・バレステロス。2008年に脳腫瘍で倒れ、長い闘病生活の末、2011年5月7日、故郷ペドレニャの自宅で逝去。まだ54歳の若さだった。
その死を悼み、多くの名手たちが言葉を残している。
例えばリー・トレビノは「ニクラスにはパター。俺には飛距離。ゴルフの神様は必ずひとつの欠点を与える。ただしセベ以外は」と。
しかし、中でもクレンショーの言葉が、いちばんセベのゴルフを言い当てているように思えるので取り上げたい。
79年、全英オープン最終日16番。ティーショットは右に大きく想定外の曲がりで、ボールは臨時駐車場の車の下。グリーンすら見えない状況からなんとピンまで4メートルの位置につけ、バーディ!
80年、マスターズ2日目17番。これまた想定外の曲がりで7番グリーンへオン。そこからグリーン外へドロップし、7番アイアンで打たれたボールは17番グリーン、ピンまで5メートルの位置へオン! これまたバーディをもぎ取るのだ。
そしてマスターズのそれまでの史上最年少記録(後にタイガー・ウッズが記録更新)を塗りかえ優勝してしまうのだ。
トラブルからの神懸かり的ショットでメジャー5勝を含む全世界で91勝を挙げ、攻撃的ゴルフで記録にも記憶にも残る名手だった。
■セベ・バレステロス(1957~2011)
スペイン・カンタブリア州ペドレニャ生まれ。若い頃はボートでオリンピックに出たという羊飼いの父親の家に生まれた。貧乏な村で、セベは兄たちとともに小遣い稼ぎにキャデイを始め、自然にゴルフに親しんでいった。天分は早くも17歳で開き、プロ入り。欧州ツアーを主戦場にして活躍。スイス、オランダ、ドイツなど各国のナショナルオープン、そしてスペインオープンにも勝利。日本オープンは77年、78年と連覇。欧州ツアー50勝、PGAツアーはマスターズ(80、83年)、全英オープン(79、84、88年)を含め9勝、全世界で91勝を挙げる。母国ではマイナーだったゴルフをメジャーに押し上げた功労者でもある。2011年5月7日、54歳、脳腫瘍で没。