【名手の名言】小針春芳「名手はパターでスウィングを作り、下手はドライバーでスウィングを作ろうとする」
レジェンドと呼ばれるゴルフの名手たちは、その言葉にも重みがある。ゴルフに限らず、仕事や人生におけるヒントが詰まった「名手の名言」。今回は那須の神様と呼ばれプロゴルフ草創期をリードしたレジェンド・小針春芳の言葉を2つご紹介!
名手はパターでスウィングを作り
下手はドライバーで
スウィングを作ろうとする
小針 春芳
研究熱心で知られ、生涯ゴルフの何たるか、スウィングの何たるかを探求して、その情熱はとどまるところを知らなかった小針春芳。
その小針翁の持論というのが冒頭の言葉だ。
「パターの振りの延長が大きなショットを作るんじゃ。それをな、大体はドライバーの振りでスウィングを作ろうとするんじゃな。これでは上達は遅れるな。それに大きいもんばかりに目がいって、スコアを作る細かいもんがおろそかになる。“ザル”になってしまうんじゃ」
練習場でも、気持ちよさを求めてついドライバーばかり打ってしまいがちだが、スウィングの基本は小さな振りにある。行き詰まりを感じているゴルファーは、一度小針の言葉に立ち返ってみてはいかがだろうか。
死ぬか生きるかより
勝つか負けるかのほうが楽。
負けても次の試合で勝てばいいんだから
小針 春芳
小針は栃木県黒磯に生まれた。高等小学校を卒業後、鉄道員になろうとしたが、色覚障害のため不採用となった。仕方なく自宅近くにあった那須ゴルフ倶楽部に入社。それがプロゴルファーになったきっかけだった。
1940年、その那須GCで行われた関東プロ招待競技で、浅見緑蔵にプレーオフで敗れたものの2位。これがプロとしてのデビューになった。
その後、出征。激戦地のニューギニアで終戦を迎えたが、小針の部隊にいた400人のうち、生き残ったのはわずか13名であったという過酷な体験をしている。
狂気に陥った同僚兵士が自ら手榴弾を抱え、自爆した光景も目にしている。地獄をみた小針は自らを“死に残り”と達観して、その後の彼の人生観に大きな影響を与えたのは当然だろう。
表題の言葉はそんな小針の人生観が投影されている。死のなかの生をくぐりぬけた人にとっては、ゴルフの土壇場の勝ち負けは“軽い”ものであったに違いない。そんな体験もない人が吐いても、上っ面だけだろうが、小針が発すると一語一語が非常な重みをもって、心に迫ってくる。 帰国後、プロの道へ復帰。日本オープンを2度制するなど、戦後のプロゴルフ草創期をリードしたゴルファーの一人である。
■小針春芳(1921~2019)
こばり・はるよし。栃木県黒磯生まれ。たまたま生家近くの那須ゴルフ倶楽部に就職したのが、プロゴルファーになるきっかけ。戦前はプロとしての実績はさほどみられない。出征。最初は北支、そしてニューギニアで終戦を迎えたが、かの地では部隊400人のうち、13名だけしか生き残らないという過酷な体験をする。戦後、プロ界に戻ってからは目覚しい活躍。163センチ、57キロの小兵ながら、日本オープン2勝を始め、関東オープン2勝、関東プロ1勝。シニアになっても日本プロシニア2勝を始め7勝。