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【名手の名言】樋口久子「言葉ができないから、そのぶんゲームに集中できた」

レジェンドと呼ばれるゴルフの名手たちは、その言葉にも重みがある。ゴルフに限らず、仕事や人生におけるヒントが詰まった「名手の名言」。今回は元祖米女子メジャータイトリストのレジェンド樋口久子の言葉を2つご紹介!


言葉ができないから
そのぶんゲームに集中できたわ

樋口久子


“チャコ”こと樋口久子が、米女子ツアーに参戦しはじめたのは1970年のことだった。

その3年前、女子プロテストに第1期生として受かったものの、トーナメントは数えるほどしかなく、スキルアップの場がない。それならと、武者修行として同じ第1期生の佐々木マサ子らと渡米したのが始まりだった。

そしてその7年後には、見事メジャーの全米女子プロに優勝するのだが、表題の言葉はそれらを振り返っての感想だ。

当時、男子も米ツアーにはメジャーなどで招待されてはいたが、常駐する者は誰もいなかった。その理由のひとつに言語の問題があった。英語をしゃべれなければ、日常生活でもコミュニケーションがとれず、ましてツアー転戦などできるはずはないと思われていたからだ。

もちろん樋口も英語はチンプンカンプンだったが、その逆境を逆手に取り、自分のプレーに集中。米ツアーで活躍する日本人プレーヤーの先駆けとなった。


いつかはこういうこともあるでしょう
でも落ちたというより
よくここまでやってこれたと思う

樋口久子


どんな王者でも敗れ去る日は来る。1983年9月23日、日本女子プロで、女王・樋口久子が予選落ちした日である。予選落ちがニュースになるほど、樋口は強かったというわけである。

67年に女子プロ創立記念大会に出場してから、83年のその日まで、なんと240試合連続で予選通過。海外の試合も含めると、70年の全米女子オープンで予選落ちを喫して以降、実に338試合連続で予選通過を果たしていた(棄権は2試合あり)。

高校時代、陸上競技(ハードル)の選手から転向し中村寅吉に弟子入り。猛練習の末、体力不足をカバーする独自の「スエー打法」を確立。

後年米ツアーに参戦した時は、磁石のようにピタリと戻るスウィングということで「マグネティックスウィング」と称された。74年豪州女子オープン、76年に欧州女子オープンを制し、77年にはアジア人初の海外メジャー制覇。すごいのは米ツアーに参戦しながら、その年の日本女子オープンと日本女子プロも獲っていること。

国内では69勝を重ね、うち9勝を挙げているのが日本女子プロ。そんな常勝・樋口だったからこそ、たかが予選落ちという出来事が、スポーツ紙にデカデカと載るほどの大ニュースとなったわけだ。わずか1打差で、プロ転向後初となる予選落ちを喫した際に漏らしたのが表題の言葉。

ちなみにその試合で優勝した大迫たつ子が、樋口久子の記録を上回る、国内ツアー278試合連続予選通過の大記録を達成している。

■樋口久子(1945年~)

ひぐち・ひさこ。高校1年まで陸上競技の選手だったが、姉が務めていた砧ゴルフ場でゴルフと出会い、卒業後、大御所・中村寅吉門下生に。67年第1回女子プロテストに合格。翌年、日本女子プロに22歳で勝って以来、国内で69勝。メジャーの全米女子プロを含む海外3勝を挙げ、国内と合わせて72勝の金字塔を打ち立てた。03年、アジア人初の世界ゴルフ殿堂入りを果たす。