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【ゴルフと競馬】<後編>根岸、鳴尾、柏…日本にもかつて競馬場の“中”にゴルフ場があった

広大な面積を持つ楕円形の競馬場の内馬場。そこに目を付けたゴルファーは洋の東西を問わず存在した。古くは17世紀のスコットランド・マッセルバラに始まり、日本でも開港により外国人居留地から西洋文化が持ち込まれ、競馬とゴルフは共に発展することになった。

TEXT/Takeo Yoshikawa PHOTO/GD写真部、Getty Images
参考文献/「美しい日本のゴルフコース」(田野辺薫、吉川丈雄共著、ゴルフダイジェスト社刊)

>>前編はこちら

日本初の
芝グリーンが誕生

ニッポン・レース・クラブ・ゴルフ・アソシエーション
1906年/神奈川県

競馬場のトラックは1周1764メートル、幅は約29メートルと本格的だった。当時は富士山が眺望できた

神戸の六甲山に日本初のゴルフ場、神戸GCができたのは1903年。そのわずか3年後に日本で3番目、関東最初のゴルフ場が横浜の根岸に完成している。

1858年、江戸幕府がアメリカ、イギリス、フランス、ロシア、オランダの5カ国と通商条約を締結したことから横浜、神戸、長崎が開港され外国人居留地が造られた。なかでも最大の居留地となった横浜には多くの西洋文化が持ち込まれ、競馬もそのうちのひとつだった。

最初の競馬は1860年9月1日に現在の元町で行われ、62年には1周1200メートル、幅11メートルの洋式円形競馬場が横浜新田に造られ、80年ニッポン・レース・クラブが設立されると本格的な競馬場を横浜の根岸に造ることになった。トラックは1周1764メートル、幅は約29メートルで、現在の競馬場と比べても遜色のないものだった。

根岸競馬場のトラックが右回りなのは、最後の直線が急坂になり勝負がつまらなくなるのと、工事費用がかさむことが理由だった。以降、日本のトラックの大半が右回りになった

1906年ニッポン・レース・クラブ・ゴルフ・アソシエーション(NRCGA)が設立され、11月に9H・2473Y・P33のゴルフ場がトラック内に誕生。当時の神戸GC、横屋GAのグリーンやティーグラウンドは砂に油をまいて固めたものだったが、根岸は日本最初の芝グリーンだった。翌1907年には神戸と根岸との対抗戦インターポートマッチが開催され、日本アマも1918年まで神戸と根岸での交互開催となった。

1943年戦局の悪化により閉鎖され、戦後になると米軍専用の横浜PX根岸GC(9H・1552Y・P29)として復活したが、1969年に接収解除となり1977年に根岸森林公園となった。

現在は根岸森林公園として市民の憩いの場所として親しまれている。道路を隔てた場所に松任谷由美の曲で有名なカフェ&レストラン「ドルフィン」が今もある

2009年に近代産業遺産に指定された旧根岸競馬場一等馬見所。1889年から使われたメインスタンドは1923年の関東大震災で半壊。競馬場長のステーツ・アイザックスは、1920年丸の内ビルを設計するために来日した建築設計士ジェイ・H・モルガンに「高い耐震性、高い格調、左右のコーナーが見やすい機能的なスタンド」の設計を依頼し1929年完成


鳴尾競馬場は
3コースのルーツだった

鳴尾ゴルフアソシエーション&鳴尾ゴルフ倶楽部
仁川ゴルフクラブ
1914年/1920年/1951年/兵庫県

阪神競馬場内に造られた仁川ゴルフクラブ。大谷光明の設計で1951から98年まで存続した

1907年、鳴尾川河口西岸に関西競馬場が開場するが、翌年、鳴尾川河口東岸にも鳴尾速歩競馬場が開場。1910年になると馬政局は交付金の関係から競馬倶楽部を削減することになり、関西競馬場は鳴尾競馬場と改称され、鳴尾速歩競馬場は廃止された。

六甲山の神戸GCは冬季にプレーができないことから横屋ゴルフアソシエーションとして6ホールのコースを阪神沿線に造り、1914年には鳴尾速歩競馬場跡地に移転して鳴尾ゴルフアソシエーションを設立。だが会員の減少により1920年に解散して土地を返却。その跡地に今度は有志38名が鳴尾ゴルフ倶楽部を設立、1924年には18H・5080Y・P68となり1927年には6030Y・P72(1929年に9ホールに縮小)の規模になったが立ち退きを求められた。そして現在地の猪名川コースを造るが、こちらも鳴尾浜コースとして1939年まで存続していた。

鳴尾速歩競馬場は1910年に廃止され1914年に鳴尾ゴルフアソシエーションが設立されたが土地の返還後解散。有志により1920年に鳴尾GCが設立。猪名川の新コースに移転するまで“鳴尾浜”でプレーが行われた。写真は1930年代の5番ホール(上)と8番ホール(下)

1943年になると川西航空機の新型戦闘機“紫電改”のテストのために軍により関西競馬場は接収され1944年に現在の宝塚市千種付近に移転。日本競馬会は移転先に国内最大級の競馬場建設を計画、その敷地には宝塚GCのアウトコースのほとんどが含まれていた。だが終戦後、駐留した米軍が競馬場予定地一帯を接収して軍のレクリエーション施設としてゴルフ場を利用。競馬場は再度移転となり、仁川左岸(現在の宝塚市新明和町付近)の川西航空機宝塚製作所跡地に1949年、約4万3000人収容の阪神競馬場が完成。だが内馬場が戦災当時のまま荒れていたことから農林省競馬部は整備の一環としてゴルフ場建設を計画し、1951年に大谷光明設計で9H・1655Y・P29の仁川ゴルフクラブが完成し1998年12月3日まで存続した。

1951年に接収が解除され宝塚GCを含む競馬場用地が返還され、コース内に馬の調教場新設計画が決定、着工が始まるが、中央競馬会が発足。コースが用地を買収することで問題は解決することになった。

現在の鳴尾GC 3番ホール

競馬場内に誕生した
北海道最初のゴルフ場

函館ゴルフ俱楽部
1927年/北海道

1927年函館競馬場のトラック内に6H・1860Y・P24のコースが完成。これが北海道最初のゴルフ場だった

1858年、江戸幕府とアメリカとの間に日米修好通商条約が締結。1859年に箱館(函館)が開港され、自由貿易港として栄えると同時に西洋文化が持ち込まれ、1862年には早くも祭典の余興として競馬が行われている。1882年に函館海岸競馬場が開設され1896年に現在地に移転。

日本銀行ロンドン支店駐在中にゴルフを覚えた君島一郎は1927年に函館に赴任すると市内の柏野でボールを打ち、やがて自分だけのゴルフ場を造った。函館市内にゴルフをする人物がいるとの噂を聞きつけた平野信男は、君島を訪れ2人だけの倶楽部を結成。より本格的なゴルフ場を造ろうと2人が目を付けたのは柏野にあった函館競馬場トラック内の草地だった。平野はニューヨーク駐在時にゴルフ倶楽部に入会しており、その経験をもとにコースのレイアウトを作製、君島は地元を代表する財界人・山崎松次郎や大倉商事の佐田作郎を口説いて回った。

1927年、芝は横浜から取り寄せて6H・1860Y・P24のコースを完成させ、同年11月3日に会員15名で函館ゴルフ倶楽部を設立して開場。だが、競馬開催日だけでなく調教中もプレー禁止だったため1936年9月6日に上野高台の9万2000坪に9H・3100Y・P36のコースを誕生させた。設計は赤星四郎。景観がよく「見晴コース」と親しまれたが太平洋戦争の影響を受け1944年に閉鎖。

戦後の1947年米軍により3ホールが追加されたが、1964年に函館市から用地を借り受け、再び赤星四郎の設計により9H・3307Y・P36のコースを完成させた。

1927年創設当時の会員。前列右から2人目が君島一郎(1887~1975)。栃木県那須町生まれ。東京帝大卒業後に日本銀行入行。函館支店長時代に函館GC、岡山支店長時代は岡山霞橋GC(1930年)、門司支店長時代には門司GC(1934年)に関わった。野球研究者でもあり2009年に野球殿堂入りをした。後列左から2人目は平野信男

現在の函館GC。設計は2代目コースと同じ赤星四郎が担当した

千葉・柏にも
競馬場とゴルフ場が

柏ゴルフ場
1928年/千葉県

1928年、千葉県の柏に柏競馬場が建設され10年間競馬が開催された。創始者は地元の資産家・吉田甚左衛門で柏は東京に近く、布施弁天、曙山、手賀沼などがあり観光地になるというもくろみがあった。関西の鳴尾競馬場で自ら現地を視察して決断。新聞発表では競馬場、トラック内にゴルフ場、そして弓道場、庭球場、乗馬練習場に娯楽施設を併設するという壮大なもの。競馬場は1周1600メートル、幅30メートルという本格的な規模だった。

当時の法律では競馬開催は春、秋とも3日間のみだったことから、我孫子に暮らす文人・杉村楚人の提案でトラック内にゴルフ場を建設。ちなみに杉村は我孫子町長の染谷正治にもゴルフ場建設を提案し、完成したのが我孫子GCだった。柏ゴルフ場は1929年、9H・3085Y・P36で開場したが競馬場と共に1942年に閉場している。

柏ゴルフ場のレイアウト。5、6番は本馬場の外にある。最長は8番で580ヤード(出典:「歴史アルバムかしわ~明治から昭和~」)

観光促進のため柏の富豪・吉田甚左衛門が鳴尾競馬場を視察して競馬場と娯楽施設を建設。他の競馬場と異なり最初からトラック内にゴルフ場を計画した

材木置き場や田んぼ、
競馬場を経てゴルフ場に

宮崎カントリークラブ
1953年/宮崎県

1953年頃、宮崎にもゴルフに興味を持つ人々が現れ、宮崎市役所裏手にあった材木置き場で日向興銀頭取の大原友幸を中心として7~8名が集まりドライバーを振り練習を始めた。

彼らはちょうどその頃、高千穂の九州電力上椎葉のダム工事に関わっていた稲生光吉(工学博士、後に三菱ふそう自動車株式会社社長)という人物に月3回のレッスンを懇願した。稲生光吉はハンディ12という経験者だった。レッスンを受けるのだからと材木置き場に30万円もかけて6打席の練習場を造ってしまった。上達するに従い、もっと飛ばしたい願望が募り、工事中だった大淀工業高校の敷地や一ツ葉の田んぼでドライバーを振り回したりしていた。

当然物足りなくなる。ゴルフはドライバーの飛距離を競うスポーツではないからだ。目を付けたのが宮崎競馬場(花ヶ島競馬場)だった。宮崎競馬場は1898年設立の宮崎競馬会によって1907年に造られ1周1600メートルのトラックを有していた。だが戦局の悪化により1943年12月19日のレースを最後に開催中止になり、戦後の1948年に制定された新競馬法では開催不可の競馬場に指定されてしまった(現在はJRAの育成牧場)。宮崎のゴルファー有志が着目したのは、使われていない花ヶ島競馬場トラック内の広大な草地。ここにコースを造り近隣の農家の女性を集めキャディとした。

宮崎のゴルファーは花ヶ島競馬場トラック内の広大な草地に目を付けゴルフ場を建設した

60年には現在の新コースが宮崎空港と海浜との間の防潮林に建設された。当時としては珍しい1グリーンで、設計は日本アマ3連勝の名手で九州出身の三好徳行だった。

海浜の防潮林に造られた現在のコースは18H・6558Y・P72の規模だ

週刊ゴルフダイジェスト2025年9月30日号より