【私の経歴書】#2 プロゴルファー・タケ小山「アメリカンドリーム」
あるときはテレビの解説者、またあるときはラジオのDJ、しかしてその実体は、プロゴルファー。ゴルフ界で活躍する様々な人物を紹介する当連載、今回はマルチな才能で多方面で活躍するタケ小山氏に、これまでの人生を振り返ってもらった。
写真/三木崇徳、本人提供
ジョン&パンチや
ビッグイベントゴルフを見て
画面のなかのアメリカに憧れた
タケ小山(以下タケ)がゴルフを始めたのは、8歳の頃。父親が練習場へ通うときについて行くようになった。しかし、プロを目指すジュニアゴルファーではなく、小学生の頃は八王子リトルリーグに所属する野球少年だった。
「調布のリトルには同学年にあの荒木大輔がいてね。ウチのチームも強かったけど、荒木が投げるときは勝てなかった」とタケは当時を振り返る。
「6年生のとき、リトルの選抜チームに選ばれてグアムに遠征しオーストラリアやアメリカのチームと対戦したんだけど、試合前の練習中にグアムチームの監督が『お前たち、何してんだ?』という感じで、蛇口がついた大きなウォーターサーバーを持ってきて、これを飲めと言ってきた。当時、日本では練習中は水を飲むなと言われていたんだけど、海外のチームはみんなスポーツドリンクを飲みながら練習していてね。ビックリしたよ! 日本と海外では練習のやり方もこんなに違うんだって」
タケが生まれた1964年に開催された東京五輪。日本の女子バレーボールチームは「東洋の魔女」と恐れられ金メダルに輝いたが、苦しい練習により鍛えられた“根性”が強さの源とされ、日本のスポーツ界は根性論が主流を占めていた。練習中に「水を飲むな」は、当時の日本では当たり前のように言われていた。そんな時代に、原色のような鮮やかな色をしたスポーツドリンクを飲みながら練習する海外チームの光景は、小学生だったタケの心に大きなインパクトを与え、海外に興味を持つきっかけとなったのだ。
ちなみにタケと小・中学校の同級生でリトルリーグでも一緒だったのが、後にタイガー・ウッズの使用ボールを開発することで知られ、ブリヂストンやナイキで活躍したロック石井だ。石井もタケと同様に海外に活躍の場を求めたのは偶然ではなかったのだろう。
この頃からタケは日曜の夜に放送されていたアメリカのテレビドラマやスポーツ中継を見るようになった。
「(白バイ野郎)ジョン&パンチはよく見たね。カッコよかったし。それと、ビッグイベントゴルフ。当時は海外のツアーはここでしか見られなかったから」
インターネットがまだない時代。海外の情報は限られていたなかで、画面のなかのアメリカの生活や、青い空とまぶしい陽の光に輝く美しいコースはタケを虜にし、アメリカに対する漠然とした憧れを持つようになった。そして次第に興味は野球からゴルフへと移っていく。
「オヤジと行っていた練習場に小泉さんというプロがいて、いつも声を掛けてくれてね。レッスンを受けていたわけではないのに教えてくれてたんだ。その小泉さんが、オレが高校に入るときに、ゴルフ部がないなら硬式テニス部に入れって。面でボールをとらえる右手の動きがゴルフに役立つからと」
プロの勧めで硬式テニス部に入ったタケだったが、2年生の夏に初めて18ホールをラウンドしたことでゴルフにのめり込み、テニス部は退部した。
「3年生に上がる春に一の宮CCで開催された東日本ジュニアに出たんだけど、これがゴルフでオレの初めての試合。スコアは初日が105、2日目は95でトータル200。優勝した米山剛くんが確か72-71だったから、60ストロークくらい差をつけられた。それ以降、ジュニアの試合には出なかった」
高校を卒業し、中央大学に進学したタケは、ゴルフ部ではなく同好会に入部した。
「ゴルフ部の説明会にも行ったんだけど、思った以上にお金がかかることがわかって。オヤジはサラリーマンだったし、とてもバイトでどうにかなる金額ではなかった。だから同好会にした。なんか楽しそうだったし(笑)」
この決断が後にタケの人生を変えることになる。その理由は後述するが、この頃、タケは自宅近くにオープンした練習場でバイトを始めた。この練習場に金井清一のプロショップが入っていた。
「できたばかりの練習場で、あるとき、『ドライバーでネットを越す学生がいる』という噂が金井さんの耳に入り、練習場の監修をした金井さんが『そんなはずはない』とオレの打席に見に来た。そして『打ってみろ』というから、ティーを高めにして打ったらネットを越えてね。金井さんはびっくりしていたけど『その飛距離ならプロになれるぞ』って言ってくれたんだ」
マンデーからドラルオープンに出場。
練習ラウンドはアンディ・ビーンと
一緒に回ったよ
大学2年のとき関東ゴルフ練習場連盟のプロテストに参加者64名中、ただ一人合格。卒業後はバイト先の練習場のアシスタントプロになり研修会に参加していた。
「当時は月例会や研修会で成績を上げないとプロテストを受けられない時代で、なかなかそこにたどり着けなかった」
そんなとき、ハワイアンオープンなら日本人でもマンデーを受けられるという話を聞いた。ハワイアンオープンのマンデーはパールCCで行われており、日本人の担当者に電話してみると、日本プロゴルフ協会のプロテストに合格していないとマンデーには出られないと断られた。でも納得できないタケは、5000円のテレホンカードを手に公衆電話から、慣れない英語でハワイの大会事務局に電話してみると、なんと参加OKという返事をもらえた。
「マンデーの申請書をファックスしてもらい、それをほかにも出たいという仲間にコピーして、みんなで申請書を送った。でも大会が近づくとだんだん不安になって、周りからも出られるわけがないと言われてね。不安を抱いたままハワイ行きの飛行機に乗って、パールCCに行ったんだ。するとコースにいた日本のプロたちから何しに来たんだという目で見られて。しばらくしてマンデーのスタート表が張り出されたんだけど、自分の名前を見つけたときはホッとしたよ」
残念ながらマンデーを通過することは叶わなかったが、アメリカへの憧れを一層強く持つことになった。そんなタケに願ってもないチャンスが訪れた。大学同好会で2つ上の先輩の実家である企業「スポーツ振興」が新たにフロリダのコースを買収したのだ。
「木下剛先輩に、ぜひとも所属プロとしてアメリカへ行かせてほしいと嘆願したんだ」
フロリダ州オーランドから南へクルマで45分。当時はレッドベターアカデミーもあり、充実した設備を持つグレンリーフリゾートの所属プロとしてタケは89年6月に渡米した。
「年棒は2万ドル(当時のレートで約270万円)。最初は芝刈りからカート番、レストラン業務、宴会係など何でもやった。6カ月くらいした頃には予約受付もやった。最初の3カ月は英語なんかまったくできなかったけど、半年くらい過ぎた頃から少しずつわかるようになってきた。そんなコースの仕事と並行してミニツアーにも出始めたけど、全然稼げなかった」
当時のミニツアーは1日大会のエントリーフィーが150ドル、2日間大会が250ドル、3日間なら350ドルだった。
「72で回ったくらいでは賞金にありつけなかった。100人が出場すると賞金がもらえるのは上位30人くらい。なかなかそこに入れない。でも出場したアメリカのプロたちは、『タケ、惜しかったな。でもいいショットを打っているから、次は絶対いけるよ』って言うんだよ。彼らからするとオレみたいな選手が出ないと、賞金が集まらないからね(笑)」
それでも試合に出続けたが、年末に日本から持っていったお金が底をついた。
「妻に日本へ帰ろうかと相談したら、もう少し続けたらと、妻が自分の貯金を出してくれた。それでアメリカに残ることができた」
ミニツアーに出ながらQTも受けるようになった。
「アメリカは難しいと思ったから、カナダツアーや豪州ツアーのQTを受けた。そしたら豪州は受かって、91、92年はオーストラリアに単身、出稼ぎに行ったんだけど、ツアーに出るのも金がかかる。そんなときサポートしてくれたのが、当時、日本タイトリストの社長だった渡辺一美さん。たくさん面倒をみてもらいました」
オーストラリアでは後に日本ツアーにも参戦するデビッド・スメイルやグレッグ・ターナーがいた。フロリダのミニツアーでは、クリス・ディマルコ、スティーブン・エイムズ、ウッディ・オースチン、スキップ・ケンドールなど、PGAツアーで活躍することになる選手たちと戦った。
徐々に成績を上げていたタケは95年、PGAツアーのドラルライダーオープンのマンデーに挑戦、見事に通過し、ついにPGAツアーの大会に出場した。ビッグイベントゴルフで見た憧れの画面のなかの舞台にタケはたどり着いたのだ。
「練習日にコースへ行ったら、グレンリーフで顔見知りだったアンディ・ビーンが『タケ、よく来たな』と声を掛けてくれて、ジム・デントと3人で練習ラウンド。楽しかったな」とタケは振り返る。ジュニア時代にはほとんど試合にも出ず、大学やアマチュアでも実績のないゴルファーが世界最高峰のPGAツアーの舞台に立ったのだ。その道のりはエリート街道ではなく、長く険しい荒れた道だったが、タケは諦めることなく突き進んできた。
95年のPGAツアー「ドラルライダーオープン」で18番をプレーするタケ小山。2日間通算5オーバーで予選落ちをしたものの、L・ジャンセンやC・ベックなどのメジャーチャンプたちより上位だった。ちなみに優勝はニック・ファルドで2位はグレッグ・ノーマン
最初は稼げなかったけど
解説の仕事を始めたら急に
勝てるようになった
そんなタケのもとに96年、ゴルフチャンネルの解説をやらないかというオファーが届いた。
「NHKの解説者、佐渡充高さんから紹介されたんです」
ここにテレビ解説者・タケ小山が産声を上げたのだが、思わぬところで副産物があった。
「解説の仕事をするようになって、ミニツアーで急に勝てるようになった。客観的にプレーを見られるようになったのがよかったのかな」というタケは、それまで上位に入ることはあっても勝ち切れなかったミニツアーで勝ち星を重ねた。気づけばミニツアー通算37勝、97年には北フロリダPGA・ウィンターツアーの賞金王にも輝いた。
99年には日本ツアーで初めて導入されたQTを受験。翌2000年は日本でチャレンジツアーを主戦場に、再び単身赴任で戦った。01年はフロリダの所属コースを離れ、これまでパートタイムだったゴルフチャンネルに入社し、解説者の仕事がメインになった。
「収入も安定し、オーランドに家も買いました。でも、06年に再び日本のQTを受け、翌年はまたチャレンジツアーに出られることになった」
安定した収入を捨て、再びツアーに挑戦するというタケの決断を妻は受け入れ、18年におよぶアメリカでの生活に終止符を打ち、07年に家族揃って日本に帰国した。
08年には早稲田大学大学院でトップスポーツマネジメントを学んだ。プロ野球の元巨人・桑田真澄が修了したことで話題となり、後に多くのスポーツ選手が同課程を修了しているが、タケは桑田より1年早く学んでいた。
そして、同年4月からはインターFM897の「グリーンジャケット」という番組でディスクジョッキーを務め、TBSの「サンデーモーニング」では“屋根裏のプロゴルファー”という愛称で出演するなど、マルチな活躍を見せるようになる。
「関口宏さんにはゴルフを知らない人にゴルフを伝える大切さなど、多くのことを教わりました」
テレビ、ラジオと多方面で活躍するようになったが、タケはプロゴルファーであることを忘れてはいない。日本シニアオープンの予選会には毎年出場し続け、本選に進み予選を通過した年もある。19年には全米シニアオープンの予選会にも挑戦している。解説業がメインとなりつつあるが、それでもタケは“現役”のプロゴルファーであり続けているのだ。
好きな言葉は“捲土重来”
なんかオレらしいだろう?
「改めて振り返ってみると、そのときどきで支えてくれる人たちがいた。プロになることを決意させてくれた金井清一さん、海外を転戦して苦しいときに支援してくれたタイトリストの渡辺一美さん、日本に帰ってきて伝えることの大切さを教えてくれた関口宏さん、みなさんのお陰で今の自分がある」とタケは言う。そんなタケに好きな言葉を聞いてみると
「毎年、その年のテーマを四文字熟語で決めるんだけど、19年のテーマだった『捲土重来』という言葉が座右の銘かな。なんかオレらしいでしょ。今年のテーマは『一往直前』。これもいいよね」
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最後に将来の夢を聞いてみた。
「どっかの会長になることかな」と答えたタケ。エリート街道ではなく回り道をしてきたからこそ、世界中で多くのことを経験してきたタケ小山。その手腕を見てみたい。
(文中敬称略)
週刊ゴルフダイジェスト2022年3月8日号より