【ターニングポイント】海老原清治「“31番目の男”の呪縛に悩まされていた」
一流と称される者には、自身のゴルフスタイルを確立するためのきっかけとなった転機がある。例えばそれは、ある1ホールの苦しみかもしれない。例えばそれは、ある1ショットの歓びかもしれない。積み重ねてきた勝利と敗北の記憶を辿りつつ、プロゴルファーが静かに語る、ターニングポイント。海老原清治の場合、それは、愛妻との約束でもあった。
TEXT/Yuzuru Hirayama PHOTO/Takanori Miki THANKS/我孫子ゴルフ倶楽部
不変の風景がある。
鮮魚店を営んでいた海老原清治の実家の近くに、松や楓が生い茂る鬱蒼とした森があった。7歳になったころ、隣家の友だちの父親が現れ、その薄暗い森を抜けた先へと誘われた。そこは、美しく刈り揃えられた芝生が広がる眩い場所だった。そこで友だちの父親が教えてくれたのは、木が先端についた長い棒で白い球を打つ遊びだった。
それから65年の歳月が流れた。薄暗い森と、眩い芝生の、我孫子ゴルフ倶楽部は、変わらずにそこにある。72歳になった彼は、友だちの父親、林由郎が教えてくれた、長い棒で白い球を打つ遊びを、今でも仕事にしている。
その月暮らせれば
いいと思っていた日々
我孫子ゴルフ倶楽部の3番ホールの左側に実家があって、隣に住んでいた1歳年上の子、林由一と仲が良かったの。近所では由一の家にしかまだテレビがなくて、力道山の試合を見せてもらったんだ。あの時代にテレビがあった隣の父ちゃんが、どんな仕事をしているかなんて、僕は知らなかった。
7歳の頃、近所の人たち10数人と一緒に、ある場所へ行ったんだ。そこが、いま思えば我孫子ゴルフ倶楽部の2番ホール、ティーから150ヤードあたり。隣の父ちゃん、林由郎さんが、クラブセットと球を出して、一人ずつ打たせてくれた。右の小指と左の人さし指を絡める握り方を教えてくれて、だから僕は今でもそのまんま、インターロッキンググリップだよ(笑)。
中学3年生のとき、親父(清一)が脳溢血で倒れてね。僕は長男(上に姉4人)だったから、進学は諦めて働かなければならなくなった。だけど家業の魚屋を継ぐのは、朝が早いし、氷で凍傷になっている親父の爪がない指先を見ているし、いい商売じゃないよなって。1歳違いの弟(晴司)と畳屋へ修業に出ようとしたけど、弟の卒業を我孫子でキャディのアルバイトをしながら待つことにしたんだ。
アルバイトをしているとき、「せっかくゴルフ場にいるんだから遊んでみれば」と、由一が5番アイアン1本と球を20個ほどくれたんだ。打ってみたらスライスしか出なくてね。真っすぐ打つ方法を聞いたら、「へそのところに左ひじをくっつけて腕をターンさせるんだ」と。今でいうローテーションだよね。ゴルフって、球に当たる際のフェースの向きが大切なんだとわかって、そこから熱が入ったね。それが自分の仕事になるとは、そのときはさらさら思っていなかったけどね。
プロゴルファーといえど、他者との競争を好む者と、好まざる者とがいる。
2度目の受験で1970年に合格し、海老原清治はプロゴルファーになった。だが練習もあまりせず、試合でも必死になれなかった。当時のシード権は上位30人に付与されたが、優勝争いで敗れるたびに「31番目の男」を自認した。
突然奮起したのは30歳のとき。猛練習を続けた6年目、1985年の中日クラウンズ、青木功、尾崎将司とともに「AON時代」を築いていた中嶋常幸との首位争いで、2打差を逆転して初優勝した。賞金ランキングも19位とし、大躍進の年となった。
シャンクは由郎さんに
習志野のコンクリートの杭で
直してもらいました
畳屋ではなくプロゴルファーになったけど、性格的に必死さがなくてね。人に負けても別にいいじゃないかと。娘が2人生まれても、その月暮らせるだけ稼げているからいいやって、満足していたわけ。
だけど30 歳のときに双子が生まれたんだ。娘が4人になって、こんなことをしてちゃやべぇよなってね。4人も嫁に出すまで育てなきゃならないんだから(笑)。そこからは真冬でも河原の練習場で球を打ったなぁ。
プロ4年目ぐらいから、シャンクに悩まされていてね。由郎さんに相談したら、「習志野へ来い」と。習志野CC14番パー4の第2打、9番アイアンで打ったらシャンク。もう一度打ち直してもまたシャンク。由郎さんが、「おっ、出たな」と(笑)。
教わったのは、ダウンで右ひざを前に出さないことと、体とクラブヘッドの距離を近づけること。驚いたのは、OB杭のすぐ手前にティーアップした球を、ヘッドの先っぽ(トウ)をOB杭に当てずに打つ練習をさせられてさ。習志野の杭はコンクリートだから、先っぽが当たったら指を怪我するでしょ。杭に当てないためには、ヘッドを体に近づければいいんだと気付いてね。荒療治だったけど、スウィングをどうこう指導されるより、コンクリートの杭で直された方が結果的に早かったね(笑)。
だけど、ツアーで勝つのは容易ではなかった。82年までシード選手は30人だったけど、本当に強かった。月例や研修会では5連勝をしたのに、ツアーとなると、30人と自分との間に壁を作っちゃってたんだ。俺は31番目の男だなと。優勝争いまでは行けても、最後は壁の前で潰れてしまうわけ。
1985年の中日クラウンズは、(中嶋)常幸の全盛期。最終日に2打差を追いついたとき、僕なんかが相手なのに、彼が焦っているのが丸見えだった。ああ、プロとして完璧そうな彼でも焦ることがあるんだなと。そのとき、よし、必死になってみようと思えたんだ。最終的に2打差で初優勝できて、賞金ランキングは19位。ほっとしたのを覚えてる。
中嶋常幸との戦いを制してツアー初優勝
優勝争いをしてもなかなか勝てない海老原だったが、プロとして完璧そうな中嶋でも焦ることがあるんだなと思ったことで必死になってみたという。その結果、うれしいプロ初優勝が舞い込んだ
どん底も、絶頂も、いつやってくるかわからない。
海老原清治にとってのどん底は、初勝利から12年後の1997年。腰痛でフルスウィングできなくなり、賞金ランキングは185位にまで下落した。
引退を覚悟して1年以上ゴルフをやめてみると、嘘のように腰痛が消えた。シニアツアーで復帰したが、それは4人の娘を育て終えた3歳年下の妻・利江との、「国内を2人で旅して回ろう」という約束があったからでもあった。ところが、2人で旅して回るのは、国内ではなく、ヨーロッパになった。2000年から欧州シニアツアーに挑戦し、参戦3年目には3勝を挙げて日本人男子初となる海外主要ツアーの賞金王に輝いた。それは、54歳にして迎えた、ゴルフ人生の絶頂期だった。
47歳で1回クラブを置いたら
「あれっ、よくなった!
シニアでやれるか」
若い頃からずっと腰痛に悩まされてきたけど、47歳で1回クラブを置いたら、あれっ、よくなった!これならシニアでやれるかって(笑)。その頃、うちの女房と約束をしていたんだよね。娘たちを成人させたら、国内を2人で旅して回ろうって。
ところが、国内のシニアツアーは試合数が減っちゃって、それならばとアメリカと欧州のシニアツアーの予選会を受けることにしたの。結果はどうあれ、日本からアメリカを経由して欧州を回って帰ってくれば、世界一周旅行になるじゃんって(笑)。そうしたら欧州シニアツアーの予選会に通っちゃった! 女房との約束がなかったら、挑戦しなかっただろうなぁ。
1年目は言葉がわからないし、他の日本人選手たち5人と固まっていたから、欧州の選手たちからは相手にされなかった。2年目も僕と女房だけ行くと、こいつは本気なんだと認めてくれてね。
社交的な女房にも救われたよ。だって2人で夕食をしようとレストランへ向かうと、「セイジ!」「トシ!」と途中で誰かしらに呼び止められて、2人でなんて食べられないんだから(笑)。
シニアの初優勝は、参戦2年目01年のアイルランドオープン。キャディは女房だけど、女房は何もしないでただ近くで見ているだけ(笑)。最終日の最終ホール、残り125ヤードの第2打、僕は女房に言ったんだ。俺が打ったらピンだけを見ておけよ、ピンの真上から球を落とすからって。9番アイアンで打ったら、そのとおり、20センチのベタピン! ほら、言っただろって(笑)。
若いレギュラー時代は「31番目の男」だった。だがシニアでは堂々と「1番目」に君臨している。
欧州シニア賞金王に輝いた翌03年、全米シニア選手権で最終日の前半9ホール、8バーディでハーフスコア27を記録した。これはファイアストーンCCでのコースレコードであると同時に、チャンピオンズツアーの長い歴史でも過去1人しか達成していないツアータイ記録だった。
帰国後も、06年のヨネックスシニア、07年の鷹の巣シニアで優勝。さらに圧巻は、68歳以上の日本一を決める日本ゴールドシニア選手権に「ルーキー」として参戦するや、17年から3連覇を達成。19年には4人のプレーオフを制したばかりか、最終日に70で回り、エージシュートまでやってのけた。
『何をするかわからないな
お前は』ってね。
海外でそんな風に思われるって
痛快だったね
全米シニア選手権でハーフ27を記録したときは、後半もバーディが続いたら死んじゃうなと(笑)。だから半分で充分。リーダーボードを見たら俺の記録を別枠で掲示してくれていて、仲間の選手からは「何をするかわからないな、お前は」ってね。海外でそんなふうに思われるって、痛快だったね。僕は昔からずっとスウィングを変えていない。クラブは手で振るもんだ、という考え。手は器用だし、感性も生かせる。それに手さえフィニッシュまで振れれば、体はあとから自然と回ってくれるものなんだよ。チャンピオンズツアーで選手たちにも聞いて回ったら、10人中4人は僕と似た考えだった。ああ、俺は間違いじゃなかったんだなとわかったのも、向こうに行けてよかったことかな。
これからも、クラブは手で振って、ヘッドスピードを落とさないこと。それさえできれば、飛距離も変わらないし、まだまだゴルフを、楽しめるんじゃないかな。
手を振れば体は後から自然と回る
ゴルフは手で振るもんだ、という考えで「手は器用だし、感性も生かせる」と言う海老原。池はつかまるとペナルティになるが、バンカーは得意なのでプレッシャーにならない
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むせかえるような夏草の匂い。かすかに聞こえる常磐線の列車の音。目に映るのは、松や楓に囲まれた、砲台グリーンの難コース。我孫子ゴルフ倶楽部のクラブハウスを出ると、海老原清治はアプローチ練習場で球拾いをする。
「時間があると、こうして手伝いをしているの。ここは素晴らしいでしょ。会員さんだけじゃなく、ビジターでも、いくらでもアプローチ練習ができるんだからさ」
そう言って彼は、木樽に山ほど集めて積んだボールを愛おしげに眺めた。まだ若い頃のように猛練習をすることがあるのかと訊ねると、「我孫子の大番頭」と呼ばれる彼は、かぶりを振って微笑んだ。
「打っても50球かな。100球も打って、翌日から動けなくなっちゃ、困るものね」
実家の鮮魚店はもうないし、師匠の林由郎はもういない。けれども、この変わらない、彼にとっての故郷で、50球ながら今もまだ、長い棒で白い球を打つ。
月刊ゴルフダイジェスト2021年11月号より