【インタビュー】石川遼<前編>「いろいろ言われても、それで盛り上がっていけばいい」
プロ16年目のシーズンを賞金ランク10位で終えた石川遼。これまでの歩みと、これからのゴルフ人生について、じっくりと話を聞いた。
PHOTO/Satoru Abe
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- ゴルフ界を牽引する石川遼。どのようにしてモチベーションを保ち、成長し続けているのか。後半では、頂点を目指す中での姿勢、挑戦、今後の目標を語ってくれた。 PHOTO/Satoru Abe 石川遼 カシオ所属。1991年埼玉県出身。07年マンシングウェアオープンKBSカップを15歳で制し、翌年プロ入り。09年には18歳で史上最年少賞金王に。13年からはPGAツアーを主戦場にし17……
――2023年、プロ16年目の石川遼は未勝利に終わり、賞金ランキングは10位だった。
石川 自分的にはいい年でした。日本オープンとZOZO(チャンピオンシップ)が一番よかった。そもそも調子はよかったんですけど、調子がよくても成績につながらないことのある世界なので、いいゴルフができて、成績としても残すことができたのはよかったなあと思います。自分のピークってコントロールできないものですよ。ただ、いつ噛み合ってもいいように、準備は常にしておきたいんです。
――昨年、最後まで優勝争いをし、ギャラリーを引き連れ皆をドキドキさせてくれた日本オープン。振り返ってみると?
石川 あのときはドライバーが課題でした。精度というよりは、そのホールに対してのイメージの出し方だったり。ドライバーは毎回平らなところ、いい状況から打てる唯一のクラブなので、練習していることが一番出せるクラブ。そこに集中して向き合っていこうという感じでやっていました。
「曲がる確率が高い打ち方をしていた」
――石川遼は、“ここぞ”のショットで結果を残す。若い頃は「怖いものなしで攻める」印象があった。
プロの年月を重ねると怖さは出るのだろうか。心に変化はあるのか。
石川 それとの闘いはあります。でもそこを乗り越えていくほうが強くなれると思う。怖いもの知らずの時期は誰にでも絶対にある。それが10代か20代か。僕も今の若い選手たちを見ていて思うこともあるし。僕が出てきたとき「遼は怖いもの知らずだなあ」と結構言われましたけど、「先輩にもその時期があったでしょう」と。僕は、その時期をポジティブにもネガティブにもとらえていなくて、皆が通る道だと思っています。怖いものを知ってしまう瞬間は誰しも訪れる。特にゴルフって選手生命が長いので。でも、それは終わりではないし、むしろそこから、だと思うんですよね。プロに限らずアマチュアの方も、怖いとか失敗したらどうしようと思う瞬間は皆絶対にあると思うんですけど、それがゴルフの醍醐味だよね、とも言いたいですね。
――石川にも、怖いものを知った時期があるのだと聞き、少し安心もしてしまう。それは、具体的にいつだったのだろうか。
石川 打つ前に自分をネガティブな感情が襲うことは、20代前半にはもうあったので。実年齢ではなくて、プロになって4、5年というところは結構大事。皆1回目が来る感じはします。1、2年目、特に1年目はガンガン行くのもいろいろな選手に共通していること。ただし、怖いものを全部スルーしていく人が世界でほんの一握りはいるんじゃないかなって思います。世界の上位でやっている人たちは、そのタイミングがめっちゃ遅いですよね。周りの人が「あいつ怖いものがないのかな」と思わされる時期が長い。もちろん、本人のなかではいろいろなプレッシャーと闘っていると思いますよ。
僕の場合、ドライバーや長いクラブで、20代前半から30代にかけて「ちょっと曲がるなあ」と悩んでいた期間がずっとあって。でもそれって、メンタルで曲がるわけではなくて、そこには技術が常に関係しています。100人が同時にゴルフを始めたら、100通りのスウィングがありますよね。そのときにどうしても、曲がりにくいスウィングの人と曲がりやすいスウィングの人がいる。僕はやっぱり、曲がる確率が高い打ち方をしていたんですね。プロに入って1、2年間は曲がってなかったんです。でもさかのぼると結構曲がるタイプ。中2とか中3くらいではめちゃくちゃ曲がっていたから。プロ4、5年目で曲がり始めて、そのぶんだけ成績が出ていない感じがしちゃって。そこで1回悩んだというところはありますね。
今この時代、ドライバーである程度飛ばして、ある程度曲がらないという技術が必要。7500ヤードを超えるコース、500ヤードを超えるパー4も増えてきていますし、ドライバー抜きで、世界で戦う人はいません。そんななか、曲がりにくいスウィングを最初からできる人は悩む確率は低いでしょうけど、ほかのところでプレッシャーはあるでしょうし、ずっと曲がらずにプロになった選手たちは、そこから曲がり始めたときに、初めて悩む瞬間が訪れる。そのタイミングが遅ければ遅いほど、逆に結構大変なんです。誰しも来る「どうしたんだオレ」という瞬間での、気持ちのコントロールと対処の仕方で一つの分かれ道があります。僕のタイミングは20代前半だった。それが30代前半だったら、と時間で考えると、まだ間に合った感は自分のなかではあります。体力的な部分で。
「30年後、自分を振り返ったときが楽しみです」
――怖いものを乗り越えていくため、体も技術も、準備して、努力して、自分を信じて。そういう過程を繰り返してきた。それが、石川遼というプロゴルファーだ。
石川 そうですね。ずっと自分で自分のスウィングに向き合ってきていて、一通り試したというか……めちゃくちゃ自分で試行錯誤して、あらゆることを試した感じがあったんです。でもやっぱり自分のコンプレックスというか、曲がる原因が直せなかった。スウィングプレーンなんですけどね。自分の理想的なプレーンが全然できなくて、本気でこれに取り組まないと、ここから先ずっと同じところでぐるぐる回り続けるんじゃないかというのがあったので、思い切ってスウィングを変えていこうということでした。
――その試行錯誤に対して、周りはいろいろと言う。皆が評論家のようだ。外野の声が聞こえてくることに対して、不快感はなかったのだろうか。
石川 でもそれでもっと盛り上がっていけばいいなって。サッカーとか野球は監督が何千人もいると言われているじゃないですか(笑)。ゴルフもそうなっていいと思うんです。ここには一流のコーチみたいな人が100人くらいいるんだ、ということがあっても、すごくいいと思いますね。僕は言われてもまったく気にならない。だって、それは今、答えが出ることでもない。自分の人生のなかでゆっくりと証明していけばいいと思います。成果というのは、僕のゴルフ人生が終わるときにわかるもの。今は何を言われても、僕にもわからない。確信は持っていますけど、それが上手くいったかどうかというのは将来、証拠として残りますから。答え合わせは30年後くらいなんですよね。
――石川の取り組みが、のちにベン・ホーガンのようになり、一つのゴルフ理論として存在するかもしれない。
石川 その答え合わせを楽しみに、今は過ごしているという感じです。技術だけではなくて、心技体、ゴルフに対しての、勝つために自分が取り組んでいることすべてに関して、30年後くらいに振り返ったとき、どう思うんだろうというのがすごく楽しみです。
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- ゴルフ界を牽引する石川遼。どのようにしてモチベーションを保ち、成長し続けているのか。後半では、頂点を目指す中での姿勢、挑戦、今後の目標を語ってくれた。 PHOTO/Satoru Abe 石川遼 カシオ所属。1991年埼玉県出身。07年マンシングウェアオープンKBSカップを15歳で制し、翌年プロ入り。09年には18歳で史上最年少賞金王に。13年からはPGAツアーを主戦場にし17……
週刊ゴルフダイジェスト2024年2月6日号より